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田舎暮らしの原点に思う

私の住んでいるこの地区飛騨高山。
特に街中を取り囲む郊外は、のどかな美しい集落が点在しています。
その中でも丹生川町は、毎年六月の初旬にいっせいに日を決めて、朝の5時から総出の共同作業をするのが慣わしです。
「グリーン作戦」という名のもとに、道路沿いの草刈や、かんかん。プラスチックゴミ拾いなどをするのです。
もう何年になるでしょう。かれこれ30年ほどにもなるでしょうか。

丹生川村といわれる時代からの慣わしで、どこへ行っても村民の男は草刈機を使いこなし、女は老いも若きも婦人部として、早朝公民館などに集まり、かんかんやスーパー袋の投げ捨てごみなどを拾う、労働奉仕をするのです。

その作業自体に文句を言う人もなく、いまどきの「エコだ。エコだ」と意識することもなく、ごく普通に、淡々と人々が集まって、歩きながらゴミの袋を一杯にしていく。長年の習慣担ってしまっているのでしょう。

そして、その日ををかわきりに、調理士会だ、商工会だ、老人クラブだ、と各団体で、7月8月と、158号線沿線上のごみ拾いをする。
乗鞍岳に通じるスカイラインなどのゴミを、徒歩で拾って、歩くのです。
ずーと昔から、延々と積み重ねられてきた、そこに住む人々の努力と決め事。
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きれいになった沿線道路端には、各集落ごとに花植えをするのです。
老人クラブ等のボランティアだったり、集落ごとのでの共同作業であったり、あり方は地区ごとにさまざまですが、皆さんが何気なく走り去る国道158号線沿いの道路端に、植えられている花は、「きばなコスモス」という花です。
丹生川地区を通る158号線はコスモス街道という別名すらあります。

それだけではありません。
集落ごとに花壇があり、花のコンクールさえあります。
その花壇の手入れは、家並みごとのの当番製の作業となります。
私のように体が不自由な場合は当番の代わりを出したり、スタッフを派遣したり、いろいろ対処しておかないとならない。それが気配りであり、そこに暮らす勤めなのです。
「田舎をのどかに美しく保つ」というのは、このような、努力の積み重ねあることには違いありません。

今年も6月7日の総力を挙げての「日曜日のクリーン作戦」には私も父も病人同様なので、やむなく不参加することにした。
ただ不参加というわけにはいかないので、前もってするべき作業はしておきました。

つまり自分の土地分(担当割り当て分)に相当する川沿い道路沿いの面積だけは、クリーン作戦前に刈り取っておかなければ、ならないという暗黙の気遣いみたいなものなのです。やらなければ、やらなくても罰せられることはないのですが、、、、。
なんというか、その地域に生きていくうえで、肩身が狭くなってしまうという、自分の気持ちの持ち方の範囲かもしれません。
おかげで今年も「弁天荘畑部」のスタッフ達が3人で3日がかりの述べ9人に及ぶ草刈大作業となリました。私も最終日の6月3日は草刈前の、「裏の道路ボタのさわぶきひき」を手伝ったのです。
雨が降る前にと、作業中のスタッフへ声をかけ労をねぎらう。私も姿を出す。これが大切なのです。やはり、働いてくれるものも、気持ちですから。

畑部のスタッフ達に、追いかけられるようにして、旅館部のスタッフが引いたふき。短く切り手もみ洗いをして、一晩水にさらして、あくを抜き。
充分やわらかくなるまで水煮をした後、ざらめ砂糖と黒しょうゆ、みりんでしっかり味付けをする。それがきゃらぶきと言う調理方法です。

もちろん私はぼたを歩くのは無理なので、杖を突きながら、畑の隅っこに座り込んで、ふきの葉をちぎる。それでも結構な運動に成り、けっこう今日はは疲れました。
明日から雨になるとテレビの天気予報。ほっと胸をなでおろしています。

今年も畑部のプライドの底力に感謝。旅館部の欲くの底力に感謝。
私はみんなに支えられています。ありがたいことです。
弁天荘としても夏山観光シーズン前の一大作業。草刈大作戦。
これで一人前の顔をして、この地域に暮らしていけそうです。

「わーい。弁天荘の周辺は、草刈終了。ばんざーい。」

しかし、今年というより、今月のことでしかない。
梅雨時を越すということは、つまり7月には、また草ぼうぼうになるのだが。

とにかく、舎暮らしは、草との戦争。いたちごっこ、でしかないのです。
「除草剤は毒の薬なので散布しない。犬に悪いことはしない。人にも悪いに決まっている。」
それが絶対的な弁天荘の方針。
これを貫き通すのは、私の生きているうちだけかも。大変といえば大変。
自然とのたたかいである。
除草剤を買うか、草刈の人件費を払うかと比べれば、除草剤購入のほうが、はるかに安い。

だが、「体に良いとか、農薬を使わない」とか、そういうことは、「てま、ひま、かけて」ということになる。私自身のポリシイ。弁天荘としてのステイタス。

考え方の違いであるが、「それを理解してくださるお客様が、旅館弁天荘を支持してくださるお客様があるから成り立っている。」のだと信じたい。

だから、来月のことなどは、7月になって心配することにしよう。
ドックランも延びきった、牧草地のようになるが、また、たいそうな人件費をかけて維持していくことになるのが、それが私としての経営者である事のステータスなのかもしれない。

それを理解して働いてくれるスタッフと、理解して毎年来てくださるリピーターのお客様。「両者の下に私は生かされている」に違いない。
そう思うとやっぱり感謝という気持ちに他ならない。

地域で「屋根むねを張って、人並みに暮らす」「家長が存在する家」ということは、そうゆう事からはじまる。
先祖が残してくれたたいそうな面積の山里の土地。
「土地は腐るほどあっても金はないのだよん。」
街に住む友達に何気なく話したら、大笑いされてしまった。

集落全員の「山道つくりとか、小川のいさらい」とか、いまだにまかり通り、絶対的な共同作業として存在する。
住民である以上絶対に知らん顔はできない。
どうしても出られない事情がある場合は、(私のように身体障害者になって共同作業が不自由な場合)お粗酒などを集落へ出して、区長を通してそれなりの挨拶をしておくのが何事も事を波立たせない気遣いようだ。
笑い事ではない。事実である。

お金の問題ではなく、気遣いの問題。私も集落に住む先人に習って、そうしている。
それでも「こんな身体ですので、いつもご厄介かけます。」という気持ちに変わりはない。心のあり方と感謝の仕方なのだと教わった。
何があってもお隣様という、田舎人の根底にある姿勢なのかも知れません。

「生きていく、おきて」というべきか、「結束する地域の住民として生活する知恵」というべきか。
田舎暮らしはは都会暮らしより、うんと面倒であり、「きれい」とか「のどか」とかいう中に、「懸命に生きていく、まじめさ」や必死の「勤勉さや、誠実さ」が隠れていて、ありのままの姿の奥にある努力が見てもらえないのはとても残念だと思う。
日本全国どこにでも、田舎には、こういった飛騨の山奥でなくても、同じような風習や、培われてきた慣わしがあるはずです。
そうゆう原点を考えれる人でなくては、田舎には暮らせないといっても過言ではないような気がするのです。好きなことをして気ままに暮らしたければ、田舎暮らしは無理。
田舎暮らしを夢の理想のように語り、定年後、「老後の静養地だ」と都会の家を売り払って、引っ越してくる人もある。しかしその都会とはことごとく違う不便な暮らしぶりや、やりなれていない近所付き合いに驚きながらも、「郷に入っては郷に従う」がごとく何年か暮らしてみても。

(夏のほんの少しの期間は確かにすごしやすいが、雪深く寒い冬に打ち勝てず)楽しかったのは比較的若い年寄りの間の出来事。本核的な年寄りになったとき、実際は病気になってしまう。悲しいことに、別天地として求めた、念願の理想の田舎暮らしの土地も家も、不幸にして売り払う事となってしまう。
都会の病院に入院する人もある。暮らすという難しさ。
本当は何がいいのだろうか、と思わざるを得ないのです。

都会の孤独な老人もかわいそうかもしれないが、スーパーもなければコンビにもない。孤立した場所の本当の田舎に暮らす老人は悲惨だと思います。
現実は厳しいのです。
車で10分15分運転できなければ、診療所の医者にも見てもらえず、気のきいた食料すら手に入れない。
「魚も肉も新鮮な野菜や山菜までもが、とり放題で目の前にあるので、バランスよく」等とは、とんでもない理想である。「絵に描いたもち」そのもの。

地方自治体は、借金だらけの貧乏の限りを尽くす今日、個人的に力がなくては田舎暮らしを全うできないというのが現実なの可も知れません。

「山菜のご馳走は、たまに食べるから、ご馳走であり、毎日だったら、ただの草だ」と昔はき捨てるように言っていた地元の若者の言葉を思い出す。
旅館弁天荘の宴会席で、肉を目の前にして、うれしそうに言っていたことを思い出す。まだ若くて20台だった私は、ニコニコしながら、着物に帯を締めて白たびのつま先をもみながら聞き流していました。25年も30年も前の、ペット専門の宿にしてしまう前の、むかし、昔の話。
その頃から私は飛騨牛を使い続けてきたのです。

地元の客も、遠くから来てくれる観光客も、よろこぶのは本物の肉だから。
飛騨牛が一番手っ取り早かったです。手間や板前に支払う膨大な人件費より、素直に素材のよさ。本物が持つ力を頼りにしたしたからでした。
おかげで一時弁天荘は、「料理が良い」といわれ宴会客の予約が、入りました。
何のことはない、料理というより素材の良さ二重きを置いたので、仕入れ原価を高くしただけなのです。
おかげで仕入れの支払いに追われて、年がら年中支払いにおわれる身となりました。
働いても働いても、常に貧乏な気分が付きまとう気分です。
笑い話のようですが、小分けして入ってきた収入は、団体でまとまって出て行くに他ならない。それが実態。
生きる力とは何だろう。やりつづける、継続という力なのに他ならないと思う。しかしあの頃よりはさらに、人件費も高く、何事にも経費がかさむようになった用に思うのです。
一つ一つ手間ひまかけてとは、(ひとつの事業家業として成り立たせること)を便利な、今の時代の矛盾を感じないではいられない。

「ガンバーれ。弁天荘スタッフ。感謝」「ガンバーれ。弁天荘。」
誰もが自分の事で精一杯の時代。だから、今日も私は私にエールをおくる。
今年で私は57歳。まだ若い。老人の端くれにも置いてもらえない。
社会の水準では、まだまだ働き盛りなのかも知れない。
あせらずマイペースでがんばろう。私は私らしく。
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