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観光と日本

真っ赤な一位のみ

産業遺産や農業遺産や自然遺産。
日本は世界遺産の認定を取ることに、各地の関係者は、躍起になっているようだ。
いや、競争のように地方自治体は日本中頑張っている。

なかなか書類も面倒でクリヤーしなければならないこともたくさんある中、世界遺産の認定を取るということは、「世界中から観光客を集めることができる」ということにつながるのであろうか。

そもそも観光というものに光がが当たり始めたのは、日本が戦後の復興の中で人々が何を生きがいにし、何を安らぎに頑張って来たかが。
今ではその言葉すら少し古ぼけて聞こえるリクレーションという言葉が、流行り出したころ。

日本人は休むということが罪のように感じていたものだ。
働いて働いて頑張って家族の生活を豊かにさせたいと思う昭和の人々はありとあらゆる企業や工場や商店の中で頑張ってきた。
労組が声を上げ、みんなのやる気が大きなうねりとなって見事に日本は復活して行った。
赤カブ

昭和35年。
今からちょうど半分の時代をさかのぼったころ、今とは別の豊かさを求めて人々はささやかな手の届く夢を手に入れることにステータスを感じていたのかもしれない。

そのころはまだ旅行に行ける人はほんの一握りの富裕層だったと思う。
それがどうだろう。
10年後のを45年にはひだ高山はディスカバーババーンという国鉄の観光キャンペーンで、一躍観光の光が当たりだした。そして政治の中で「まだまだ日本は飛躍し続けなければならないのです」そう言った勇気を奮い起こすような言葉が叫ばれ。「列島改造論」というわけのわからないような、わかるような論理が日本の隅々までいきわたり始めた。

「高山は郷愁のふるさと」とか「素朴な山の都飛騨高山」とかいう、キャッチフレーズがポスターの見出しに大きく掲げられ。
都会からどんどん人々が押し寄せてくるようになった。
朝市は大賑わいをし、古い町並みは観光メイン通りとして、人。人。
人の波でうずまる通りとなった。

それが私の青春時代、父の仕事を手伝うこととなったことのはじまり。
18歳からの時の流れだった。
63歳の年齢を迎えてきた今日まで、細々とした中にも多少の夢を描いても「それがのぼめばかなう」そんな中で生きてきたことには違いない。

最初の父の始めた民宿は、現金収入のない農家の娘にとって、驚くほど違った世界に思えた。
ちいさいときからサラリーマンの家の子供達のように、月々決まったお小遣いもなく、ほしいものがあると親にねだり倒して買ってもらう。
そんな成長期を過ごす子供たちが、ほとんどで、珍しい事ではなく。
当たり前のことだった。

きちんとしたお小遣い帳を付けていけるのは、学年の内でも2〜3人程度のもの。
地域的なこともあるとは思うが、飛騨は昔から現金集には乏しい。
そんな地域の村々だったことには違いない。
だから私は地元の高校を卒業する時から、一流の職人になるための道を目指した。
手に職を持っていれば強いと思った。

青と白の個展柄の振袖

当時着物は絹物で絽や紗の着物ならば8千円くらい呉服屋から、仕立て代としてもらえた。
浴衣は3000円の仕立て代だった。
合わせの着物が小紋程度で12000円。
振袖や訪問着を脱げるようになると仕立て代は2万円くらいだったと思う。

きちんと急所を抑える技術を身につければ、それだけのお金がいただける。
小さな縫い針一本あればいつでもどこでも、家庭があっても子供がいてもできる仕事だと教わったし、私自身もそう思っていた。
月に好きな時間帯にやるだけのことをすれば保障される自分の技術なのだから。
働きにも行けず家庭を持っても一生続けていける仕事だと信じていた。
学業として、きちんとした技術を身に着けよう。そう思った。

当時高校を卒業してお勤めに出た同級生は、月給が手取りで5〜6万程度だった気がする。

お茶くみや電話番や現場事務程度の仕事で。
まるで添え物のような存在の務め人になる気持ちはなかった。

だから和裁職人の道は魅力的だと思った。
もっとも都会に出れば給金は違ったことなのだろうが。
地道な田舎でのことだ。

あの頃の私にも「役場の観光課で働いてくれないか」というお声がかかった。

今とは全然違う時代の幕開けだったのだろう。
公務員になりたい人がたくさんいる現代では、とても考えられないことなのだが、役場で働かないかという役場から依頼があったのだ。

当然和裁職人の夢を追っていた私は、高山の和裁所の師匠に弟子入りしていたので役所勤めなど眼中になく、あっさり「嫌です。」と断った。
真面目に名古屋帯や丸帯を縫っているのが楽しかった。
そのころ時代は手芸というのも大はやりだった時代の事だ。
編み物を習ったり料理教室に通ったり、季節に例えれば。
娘時代は楽しい春の日のような季節だった。

名古屋帯

貧しい飛騨いちえんにも、観光という光がさしてきたのだとそう感じた。

当時の民宿は1泊2食付で一人3800円だったと思う。
和裁所に行き始めて2年が過ぎた頃だろうか。
仕立て屋さんとしての独立の道が見え始めてきたころ、先生の許可を得て一重の着物や羽織などをちょこちょこ預かって縫いだすようになった。
合わせの着物も仕立てることが許されるようになった。
が、しかし、父の始めた民宿は強烈な夏の季節のようなはち切れそうなバカンスがもたらす勢いがあった。

というのは、通年を通じての民宿の仕事もそこそこ忙しくなってきたのだ。

忙しいときだけ掃除や皿洗いを手伝うというだけでは、追いつかなくなってきたのだ。
さらに其れから世の中の物価が少しづつ、上がって。
一晩に10人泊まってもらえば単純に38000円になる。
と、安易な計算が成り立つようになって。少し方向性が変化していき始めた。

それが「手に職を身に着けて」という地道な人生の目標から、家業として成り立たせていくことに目標に私を変えさせてしまった動機かもしれない。

あのころは人々が、沿線上に泊まれる宿を求めて、右往左往している時だった。
客には困らなかった。実に面白いほどの仕事だった。
掃除も単純で畳の部屋を放棄でささと吐く程度。
今のように持ち込みの空き缶や瓶も少なく、敷布や掛布をを取り換え布団を敷く。その繰り返しでよかった。それでもとてもありがたがられて、
「峠の辻でお助け小屋に出会ったあったような」
感激の度合いを示してくださった。
民宿だったから。民宿は旅館でもない。民家の宿なのだ。

居住スペースの一部をお借りして、泊めていただくというのが基本なので、健康で明るい笑い声は、民宿の看板娘として、ちやほやされた。

仕事が楽しかった。
そんな世の中のすべてが、成長期の時代だったのだろう。

夏は夜看板の電気をつければ、あっという間に客が集まってくる時代だった。
たった数時間の仮眠を取るために。
ふもとの村の民宿は大賑わいだったのだ。

遠くに見える乗鞍岳。

乗鞍岳はそんなマイカー族が、押しかけてきた。
夜中の北アルプスの乗鞍スカイラインの稜線は、車のヘットライトでつながった。
冬はスキー客がたくさんやってきた。
スキーの全盛期で、一時スキーに行くことは若者たちにとっては流行の最先端のような時もあった。

スキーなんてしたことがないようなおじちゃんたちまでが、会社のスキー同好会とか。スキークラブとか慰安旅行とかで、団体バスで入るのが会社の、若者たちの希望だったのだろうか。

あの頃の視界のすべての若者に、エネルギーがあった。
正しい課間違い可わからないが、大学は学生運動で有れていた。
学びの場から暴動の場に、据えかえられているようなところもあった。
今のストライキなんて言うものはあのころの熱気に比べれば、大したことはない。

先日の国会を取りかこむデモもおとなしいものだ。
「私たちは、暴動や革命を起こそうと思っているのではありません」そうマイクで呼びかけている。スマートで理論整然としている。デモのエネルギー。

あれから40年ちょっと時代は流れて、今世界に向かって観光を誘致しようとしている。乗鞍スカイラインは、排気ガスではえ松がかれてしまうからと、マイカー禁止になった。
そしてさらに、動物愛護法という法律が定められて。
国立公園に指定された山岳地帯の山は、犬は立ち入り禁止になった。

「動物愛護ならば、愛犬だって」と錯覚してしまいそうになるが。
動物愛護というのは、簡単に言えば、「犬の予防して発生を抑えている病気を、ワクチンや予防注射の受けられない野生動物に移さないように」という事などが配慮の一つとしてあげられる。

未だ、いくつかの愛護の理解の尺度はあるのだが、ふもとの村には、一連の民宿はどんどんともしびを消していくことになった。スキーも流行ではなくなり、乗鞍岳のマイカー登山も禁止され。その需要の必要性がなくなってきたからと思う。そして時代を引っ張り時代を超えてきたリーダーたちは老化に耐えられず、後継者にも恵まれず。旅館やホテルという会社組織ではないので、廃業の道を選べばいいだけの事なのかもしれない。
さみしいかぎりりなのだが、それは老化と少子化の円熟期を迎えている時代の流れなのだろう。
円熟期とは、決して豊満とも違う、干し柿のような時の年月を超えた、やさしい甘さなのだと思う。刺激もなければ飛躍もない。

大テマリの花
今では平成の大合併により、村の名前すらなくなっている。

穂高の峰から乗鞍の山境に至るまで高山市なのだ。そして御嶽の登り口の一部までがふもとの村も高山市となった。
丹生川という昔からの自立した歴史も村の豊かさも。
いつの間にか失われて生きつつある。
名前のないところには歴史も言われも残らないのかもしれない。

「観光。観光」と騒がしい、今の日本はギリシャのように経済状態が、ひっ迫しているのだろうかとすら、勘ぐりたくなってしまう。

しかし長年歩き続けてきたスタイルだから、しっかりとした区別できるスペースの中で同じような感動を味わいながら仕事として、家業として継続していければありがたいとは思う。「犬猫専用旅館と無農薬野菜。」
「ペットの預かりホテル。」
そして「外国人専用の着物体験館。」私は休むことなく、いろんな仕事にチャレンジし続けていたい。それが生きがいになり楽しいから。
出会いの感動がそこにあるから。

今や日本は、時短も労働基準法で厳しく守られている時代。
ブラック企業と言われているところの話もやや耳には入るが。
あのころの日本は、みんなブラック企業ばかりでなかっっただろうか。

むしろそのような猛烈社員たちが家庭を顧みず会社に仕事に頑張ってきたからこそのような気すら思う。そんな時代を生き抜いてきた昭和の人の一人でありたい。
もう少し現役でいることをつ漬けて行こうと思う。

頑張って肉体的にも精神的にも、強靭な人たちが生き残ってきたのだと思う。

少し違ったのは、社会に生きる人々の心が意地悪くなかったこと。
もっとまっすぐで義理も人情もあって、人の心がわかる人が多かったことだと思う。

学校でのいじめも多少あったが、今のようなものとは少し違うように思った。
もっと陽気であっけらカランとしている「悪がきのような子供」はたくさんいたように思う。

これから先の日本の将来はどうなって行くことだろう。
何十年かのうちに、すっかり人々の心も生活様式も変わってしまったことに、時の流れと見るしかないような気がする。

いや、今が、どんどん変化しているのかもしれない。
社会が脳科学のアパ体験のように変化の様子が目に写るのなら、より安全な道を選択して過ごせるものを、、。と思うのですが。

観光に力を入れる気持ちがわからないわけでもない、しかしどうやって稼ぐ力のある観光にまで持って行くべきか。通り過ぎて時折トイレに立ち寄って時折水を飲む程度では、観光の場所を提供していることには、よほど事前計画に元ずいたイメージトレーニングをしておかないと、デメリットの方が先に目につくようになってしまったら計画の船はは沈没してしまう事になる。

言葉も週刊も感激度も違う外国の人たちに、日本人を相手にしてきた同じやり方で通用するものなのか。疑問に思うことがたくさんある。
なかなか直面することは、予想外がたくさんあるような気がする。
でもあまり難しく考えないほうが良いのかもしれない。
たとえば単純に言えば世界共通と需要と供給の基本理念から逸脱しなければ。
大ヒットとまではいかなくても、興味を持ってくれる人があるような気がする。

豪華な福良スズメ

それが日本人ではなく、外国人が対象と言い切っているのだから。
流れはどうなるのかは多少未定の所もあるが、きっと成功するような気がする。
家臣とは言い切れないような感触で感じる感激と感謝の気風。
まずはアイディアが勝負になると思う。

どうせ仕事にするのなら感謝されたい。
これが私の貫いてきた基本理念なのです。あんまり儲からなくても、粉飾決算をしてまでたてまえを通さなければならない会社ではないのです。

晴れやかな儀式に身に着ける着物になってしまった日本の民族衣装。
民族衣装と言い切るほどには程遠い衣装のような存在。
日本の決まり事や、モラルが常識などに固められた日本の着物文化を。
とても気軽に重々しくなく、より忠実に体験伝えられるかが。
私の最後の生涯を通したチャレンジだと思う。

今の私の一番やりたいこととなっている。

もちろん長年かかって道を付けてきたペットの宿の在り方も、捨てる気持ちはない。むしろ今まで以上に丁寧にやさしく、正面から対処していたい。
この宿は日本人を対象にしているから、日本で生まれ育った日本の家庭に居る家族というペットの存在が旅先に出ていても、そのものの憩いの場所で有ればいいと願っています。

犬の宿は日本人対象。
着物体験館は外国人対象。
その利用の範囲をはっきりとして、決してごちとゃごちゃに交えるものではないことを丁寧に説明していくべきと思っています。

留袖お袖の長い案テーク

しいて言えば細々ながらにも、経営している私の頭の中の理想が一緒だということくらいのもので、ぎりぎりの経営状態を引きずっている限り、著しい安売りもしなければ、極端なぼろもうけもしない。

それが現実なのです。

年間を通じての、宿の経営維持にかかる費用と運営経費。今年の大雪の後始末の屋根の修理費は痛かった。デモ安心安全のために修繕しなければならないところは修理費をかけなおしていく。直接の痛手に響いていくものなのですが゛何とか乗り越えて夏のシーズンを迎えました。
そのバランスがお客様に認めてもらえるラインで、持続経営できればいいなと願う程度のものなのです。

私の年齢では15年後とか20年後とかいう希望は、確約できないからです。
ただ今の現状をより優しくより暖かい気持ちでお迎えしたい。
ただ今現在の犬たちの行く先がないようなことにはしたくないのです。
できる限り、受け入れを断らないようにしたいから。そう思う限りです。


物価が上がり、仕入値段が上がり消費税が上がるさ中で、飛騨の山奥の片田舎の観光というポジションで、生計を立てるほどの給料も従業員に支払ってあげられず。
消費税もくっつけて値段をつけるより仕方なく。「やめてやるわー」と抵抗の声も上げられず。何にしてもこの国の言うまま。
なせるままについていくより仕方ないのです。

無理をしない程度に細々と地道にやっている宿なのです。
私の体と一緒でこの宿もそっと生きている程度なのかもしれません。

「働けば収入の足しにはなるのではないか」という程度のパートの世界を、脱することのできない程度で、小規模事業として存続している。「いつから、みんなこんなに苦しくなったのでしょうか。」お金の使い出がないのです。
それが現実です。


それでも家業としての仕事なのですから。
細々と持続して行こうと、努力しています。
会社組織にもしていません。女将という名のいち経営者なのです。
それが一番落ち着いているのかもしれません。
なじみ客に利用いただくのが一番、安心なのです。
お客様にとっても、「初めての宿」、宿にとっても「初めての客」は、素敵な出会いになる事が一番なのです。

どちらにとっても冒険に近いものがあるようで、特に、「ペット専用の宿の看板」を前面に出している私の宿屋は、「どうか無事一夜が負えてくれれば」と願うようなところがあります。

犬用おしぼり

相手にしているのは人間だけではないからなのです。
初めての所にいきなり連れられてきて知らない匂いの中に、おびえる犬たちにも、「安心していいんだよ」と声かけて、気に入られたい。
それが私の気持ちです。
ジョンノ家に立ち寄ってくれた犬たちに。「ありがとう。」って声かけて見送りしています。「また。おいで」これが私の気持ちだから。
そう思うのですよ。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。
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