犬たちがいっぱい

弁天荘全景夏

7月に入っての第2土曜日の昨夜は、犬たちがいっぱい泊まりに来てくださいました。これでいつもの夏らしいシーズンの幕開けのようです。

今日のジョンノ家では今現在。お留守番の犬たちが6頭入館している。
新穂高に行かれたり上高地に行かれたり、山の観光は涼しくてよいことだろう。

犬たちは最初の5分も、おいて行かれたことに、ひゃんひゃん泣いてぐずっていたが「なーんだ。泣いているのは、俺だけか。うん」なんてな感じで。

泊りのゲージの犬たちは、ぐうすかねているので、早速、みならって寝ることに決めたようだ。みんな丸くなって眠っている。

今日の仔たちは、どの仔も聞き分けの良い仔達でありがたい。

さすがに晴れた日の日曜日。向こう側に簡単に、横断できないほど、車が走行している。時折車の通りの音が途絶えると、
蝉の声がして、夏虫のキリギリスのは音も聞こえる。

「ギース チョン」キリギリスはねぎを粘りのある方に、ひっくり返して竹竿の先に挟んで。ゆっくり草むらをなぜると草むらに潜んでいたキリギリスが、ねぎにかみついてくる。キリギリスを捕まえるにはその方法が一番手っ取り早い。
昔の幼い知識は近所のガキ大将から習った知恵だ。
中学生くらいの大きなお兄ちゃんたちや、小学生の低学年から高学年に至るまで。
みんなタマのようになって遊んだ。何の隔たりもなく、ちいさい子たちは、大きい子たちの言うことをよく聞き、いじめなんかなかった。
昔私が育つ大昔は、もっと子供たちもおおらかで、車もこんなに多く通っていなかったし子供の数自体がたくさんいたので遊びが自然体だった。


麦の殻で折りたたんだ麦からで作ってもらった虫かごに入れて、きゅうりの輪切りも入れてもらって。歳の離れたお兄ちゃんたちが遊びの面倒をよく見てくれた。

喜んで家へ小走りで持ち帰った。
なんだかすぐ昨日のような気がする。
幼いときの断片的なセピア色の思い出が、長い長い成長期の思い出に、つながって絵巻物のように、思い出されていく。

山の緑

父が誕生日に俺は死ぬんだと繰り返していたのだが。
最近は言わなくなった。
7月の誕生日もそろそろ日が近い。
買い物に行ったついでにウナギを奮発した。
去年よりも今年はさらに値上がりしていてちょっとお昼の一般家庭のおかずにしては高めにつくが。
父の誕生日の前祝に、うな丼にしようと思って買ってきタ。
今日のお昼は、久々にうな丼にした。
「おれの誕生日は、今日ではない」と言い張っていた父に。

「お父さん。誕生日には死ぬんだと公言していたからね、、、。
だったら誕生日は、とぎの晩になるから。
翌日はお葬式しなければならないし。忙しくってウナギなんか食べていられないでしょう。」とブラックジョーク。

「生きて元気なうちに今年のウナギも食べたし」と、思えば、満足できると思うよ。来年のウナギも、再来年のウナギも食べなければ納得できないはず。
いつまでも「ウナギの味がわかるように、元気でいなくてはね」
とちょっぴりお説教。
そういておいたら
「ありがとう。うまかった」
と珍しく、会話のつじつまが合う話になった。

ぼけているのか、時々ねじが戻るのか。
聞こえてないようなこともあるし。
何かの拍子で小さな声でつぶやいたことすら、即座゛に返事することもあるし。

老人の事は、わからないことだらけ。
わたしも体力は年々衰えるばかりなので無理もないとは思いつつ。

煮干しを一匹づつ食べます。

時が泊まったような。過ぎてきた思い出に懐かしい記憶に浸ることがある。
毎日私は何のためにブログを書いているのだろう。
赤裸々に毎日のありのままにタイプライターのように。
カシャカシャとキーボードをたたいて、自分の散らかした文字を拾い集めて言葉に並べ替えた時。私の意志というブログが出来上がる。

日記帳のように。何かが自分の中で小さな何かが、積み上げられていくような気がする。
小説家になるには今更遅いし、自費出版で本を出すにはあまりにもインパクトのないとても金には縁のない、だらだら文章の、変哲のない日常でしかない。
サスペンスもストーリーもない繰り返す日常の出来事。

私がいつか自序伝を書いている自分に浸れるのが、何とも満足のいく時の過ごし方だと思う。一番の読者は何を隠そう、この私なのだから。

私にも若いときがあった。
何物にも毒されていない水色の空白の成長期とでもいうべきか。
次郎物語を武者振りつくように読み漁った少女期。

アンネの日記を涙を流しながら読み。
ヘルマンヘッセの詩集を聖書のように持ち歩き、ポーズのように小首をかしげてページをめくるのが、思春期の私だった。

通り過ぎてきた道に、何かの忘れ物をしてきたような、喪失感にかられないように生き切りたい。そう思っている。

5月の山の緑

毎日を言葉の積み木を積み並べている。
年取ってからどんなことを思いながら暮らしていたかを、懐かしみながら自分で知ることのために。

自分のことを自分の周りの事を、赤裸々にたくさん書いている。

それは私にとって恥ずかしい事でも何でもなく、リアルな現実なのだから。

人間らしく生きて人間らしい行いを積み重ねて人生だと思う。
恥をさらそうとさらけ出そうと、何であろうと。
これはありのままの私の生き様だから。
身近な隣の畑を連想してもらえばよい話なのだ。

それがこの宿を知るきっかけになってもらえば。
たいていの宿のブログには、個人的なことなど一行も乗っておらず。
観光記事を切り抜いて貼り付けたような、行事やイベントの案内や、そういったもので埋め尽くされている。人間らしい場や人間らしいトイ気に掛ける無機質な部目具が多い。それが公式ホームページに載せるブログなのかもしれない。
しかし残念ながら私にとって私の宿は会社でも何でもなく私そのものなのです。
だから私の手足のごとく部屋があり食事処があり各設備もみんな私という生き方を遂行するためにあるのです。これほどのエゴとステイタスは「他にはない」と思うほど、風変りな個性的な生き様なのです。
でもそれが私の犬や猫や動物たちに対する気持ちです。

まるで館内のここから先は立ち入り禁止とでも言うかのごとく、けつっして個人の家考えや経営者としての女将の姿勢などは公開しない。
考えなどは知る由もないという感じの、通り一遍のブログでしかなく。

可もなく不可もなくというところだろうか。そつのない写真が他のブログには多い。「本音と建前」の建前で本音は聞こえてきそうもない。

あまぐりちゃん

私のブログは写真でなくて読み物なのです。
わたしと、たわいもないおしゃべりをしたかのごとく、私のつたないブログを毎日楽しみにしてくださっている方もいます。
それがお客さまとの接点なのです。
チャットのように会話をしなくてもいいのです。
私が書きたい時間に決められた時間の中で、書き綴れることが毎日のブログです。

小説家ではないので毎日の仕事の中で、二時間だけブログに費やす時間があればいいのですよ。
私としては、それでストレスもなくなり、明日へ一歩進む元気になるのですから。
決して私のブログは言葉のさわやかな、名文章でなくて行きつ戻りつ人間らしく生きた煩悩の塊のようなもので心のままに、言葉にして、文字にできれば。

なぜかというとこれは週刊紙のように、「へえーー。そうなんだ。」リアルで読み流すもので、充分。いいのです。

可もなく不可もなく毎日がいっぱいいっぱいで終わって行く。
どん底のような暗い気持ちにもならず。
日々に感謝するよ取の心さえあればそれで十分なのです。
とりあえずそんなことを思っています。

庭木の手入れ

晴れが続いて3日目の日曜日。
せわしなく犬を預けに来たり迎えに来たり、犬たちは飼い主の顔を見て大はしゃぎで帰って行きます。
山から下りて見えたお客様の顔にはホッとした安堵の表情が、、。
これが犬のホテル「ジョンの家」の醐味です。

では暑い日がつつくようです。
次の台風は日本にかなりの勢いで来るそうです。
被害がありませんように。
それでは、皆様熱中症にお気を付け下さい。

いつも最後まで目を通してくださってありがとうございます。
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