弁天荘という宿の名前の由来。

弁天荘全景夏

弁天荘という宿の由来。
世の中では、「弁天」というのは美人の象徴のように言われる。
が、そんなことはない。
私は美人に生まれなかったし、明るいデブで終わりそうなのだ。

弁天小僧とかいう歌舞伎の白波五人男の一説にもアル。

そして弁天というと琵琶湖の竹王島も浮かぶ。どうやらわが家の弁財天は竹生島
のご分霊をいただいて、奉った弁財天らしい。


弁天荘は長崎にもあり、長野県にもあり、名古屋にもあり。
静岡にもあったような気がする。

私のやっているペットと泊まれるお宿弁天荘も。同じ名前。


なぜこの名前を名乗り続けたか。
其れには話せば、長いかくかくしかじかの話はなどは、ない。何とも無責任な。「もうちょっと深く考えてなづけてよ」というような話がそこにあるだけ。

単純な話、今は亡き親戚のおじいちゃんたちを祭の晩に招いて。
父が「じい様達に問いたいのじゃが、山の中の百姓にも限度があると思う。国道158号線が庭先を突き抜ける事になったで、この機会に村のすすめもあるし、わしら夫婦は民宿を始めたいと思う。そこで相談なのじゃが、なんという名前にしたらよいじゃろう。」と相談を持ちかけた。

はさがけの稲

そうしたら、親戚のおじいさんやおばあさんたちが、分家をしているおじさん達までが声をあげて。
「そりゃこのうちには歴史というものがあってのう。代々伝わる天神さまとお稲荷様と弁財天がおられるのやで、商売は弁財天にあやかって。弁天荘を名乗るのが一番じゃないか。」
祭りの晩の酒の席で、親戚たちが盛り上がった話題の挙句の果てに、名づけた名前だった。そんな名前をありがたがって、40年余も引きづてきたのだ。

天神さまとお稲荷様は、大谷の集落の天照大御神を祭っている神社の格上げとかで、森家から合社することになったので、唯一残っているのが庭先に移した。
弁財天の神様だった。その石仏は弓矢も琵琶も宝珠も手にしておられる。
「おろそかにしてはならない」との年寄りたちの声だった。

国道がついたことで弁財天の池もお堂も移築することになって。
新しいことを始めるのなら、「その信仰心に、すがれ」との一族の意見。
それは正しい言葉だったのかもしれないが。


そうやって誰一人父の決断に、文句をつけることができなくなり、反対意見すらもなく。私の家はぽつんと道路と道路の真ん中に残されることになった。
まさしく商売の道が開けたのかもしれない。

それが私の高校生の時だった。飛騨の観光の幕開けともいう。

その後、弟は大学に進み教職の道を。
私は和裁師の道を。3年ほども学ばせてもらったであろうか。
21歳の頃にもなると、冬はスキー客。
夏のお盆のころや秋の高山祭のころは、一時。
仕立て板の前から席を外す日が多くなり。

21歳のころは宿が本職なのか、和裁師が本職なのかわからなくなってきた。
そして宿がだんだん忙しくなり、面白味も出てきて。
いつの間にか、和裁師の道はあきらめてしまった。

「家事手伝い」は、聞こえがいいが、何のことはない。
体裁いい労働力だったのだ。
看板娘で、ちやほやされながら、ころころとよく働いた。
長男としての弟は、名古屋にある大学に通った。

弁財天の庭も緑いっぱい

私は何度も何とかして、この飛騨だから逃げ出そうとしたが、いつも「家出計画」は失敗に終わり、気が付くと父や母のもとで暮らしていた。
寒くて封建的な飛騨の地は若者を引き留めるほどの魅力にはかけていた。がしかしお金という現実は別であった。まとまったお金が入ることは。飛騨で稼いで都会で使えばいいということのサイクルが見えてきた。
都会どころか、海外旅行で使う事すら覚えた。

父の策略にはまって、いつの間にか民宿の切り盛りをするようになっていた。民宿で稼ぐには、学生合宿を受け。またスキーのツアーを受け。
民宿では飽き足らなくなった私が、「ちゃんとした宿がやりたい」からと、説得をする私に、父は「本気でやりたいのか」と何度も訪ね。

「銀行へ行って、いくら借りる約束を取り付けてきたのだ。何!!、2億5千万円か。返す当てがあるのか。ふーん。」と、しばらく考えていた父は。
ゆっくりゆっくり何筆かの書類に、実印をついてくれた。

それが私がこの弁財天のお池にはまった理由。
父の始めた仕事に夢を足して、大きく増築したので。それが事実上の父の後継者となった。だから若いうちはがむしゃらに働いた。
女だてらに大型バスの免許を取って。バスも運転した。何もかも若かったから少しの吹いてくる風も心知よくすら感じた。
若さというはじけるエネルギーがあった。楽しかった。

私は「お池にはまった、どんぐり」の長い長い人生を歩むことになった。
本腰で宿を始めたとたんに、母ががんで亡くなった。
父がますます私のことを手放さなくなった。

仕方ないので、「一度ぐらいは結婚してみよう」っと。
地元のホテルで結婚式を挙げた。
「えい。やっ」ていう気持ちで
遠距離例愛のけじめをつけるような感じで、お婿に迎えた私の主人。
去年私は、主人の7回忌を務めた。

中年新婚時代は、あっという間に。10年がたって、くも膜下出血で死んでしまったけれど。主人と始めた「ジョンの家」は、今も残っている。
犬もみんな二代目。私の心の支えだ。

父は母をなくして気落ちしたのか開けても暮れてもゲートボールにのめりこんでいった。そして文化財研究や発掘の大学の先生について手弁当で毎日を留守にしていた。宿に執着を持たない父の存在は、時々の変化していく私の方針展開に、抵抗勢力の存在にならず。やりやすかった。私の自由の翼は折れることなく羽ばたけた。長い人生の間には、ひやひやするような低空飛行の時もある。


私は「宿屋を犬の宿」にして、かじ取りすることに方針転換。
そのころ物珍しがった、各局のテレビや雑誌で、頻繁にとりれあげられ。
ニュースや番組の中で「弁天荘」の取材が流れて、犬たちは、さらなる犬たちを呼び込んでくれた。それが追い風となったことは言うまでもないが。

真っ赤な一位のみ

そうこうしているうちに、全国チェーンのホテルがやってきた。
都会の精鋭のホテルマンを次から次へと送り込んで、ソフトでスマートなホテルマン接客を、全国的な何かとやりにくいことになった。

「そうか。スマートに。こじゃれたホテルマンならば。こちらはどこまでも土臭い。掘りたての泥のついたサービスで対抗しよう。」
そう思って私は種まきがとても楽しくなった。

無農薬農園の収穫イベントをやろう。
個人経営だから「即決断。即実行。」スーツの男たちには到底まねできないであろう。という、どっかり地べたに座り込んだ経営理念ができた。
いつしか類友の人が集まってきて働いてくれるようになった。

そしてお客さまも同じ気持ちで、応えてくださる人達がお客さまで来てくださる。
そこには宣伝をしなくても、いつも見守ってくださる弁天荘のファンのお客様がいらっしゃる。そういう気持ちにかけることにした。
「そういったお客様を心から大切にしよう。」と、心に誓った。
今年はネット旅行会社のじゃらんと楽天の取引をやめた。

自分の部屋は自分で納得のいくように、売りたいから。直販のメリットを生かして。頑張ろうと誓って契約解除の願いを出した。
公式ホームページの中でまだやりきる何かがあるような気がしてならない。
自分の自分の出来うるすべての努力にかけてみようと思う。
やさしいお客さまをお迎えするために、やさしい宿になりきることにしようと思う。それが私の来年に向けての変化に対しての準備。

7月1日からから9月末までの間、自由にとってもらえるように。
無農薬野菜を作ろう。農薬に神経質に反応する人々が増えてきたから。

「夏場の3か月の長期イベントだ。これを夏の恒例イベントにしよう。」
誰もやらないことは、わくわくする。
そんな風にかつて思った日があったことを、今思い出している。

楽しくなると、またいろんなことにチャレンジしたくなる。
だから次から次へと忙しくて仕方がない。ユウチュウブや、メールや。オリジナルの企画や。プラン作り。まだやるべきことはたくさんある。

計画事案をこなすことは、自分一人でも向かうことができるので、手ごたえを感じられれば。その年の目標にもなる。
あきらめずに、コツコツと我が道を行く。

ますますわくわくする楽しい日々を送ることとなった。
しかし体力がまず最初についていかないという現実に。
私はノックアウトの日を知ることになった。まさかのゲームアウトか。

緊急入院した私の体から、神経麻痺が起きていることに気が付いたのは、貼り付け状態のベットから、トイレに立つ許可が出て一週間もしたころだろうか。
歩けないということの現実に、枕を濡らした。
毎日毎日。痛くてつらいリハリビに明け暮れて。
入院は絶望という蒲団を着せられた生きた屍だった。

しかし。希望はどんなに狭い窓の隙間からでもカーテンを開けてあげればさしてくるものなのです。遮光カーテンを引いていたのは病める私の心でした。
大きな病に直面すると誰しもがうろたえます。
人生設計が音を立てて、崩れ落ちていくのです。
それを残酷にも、現実としてなすすべもなく、眺めなければならないのです。

自分が涙の海でおぼれそうになっている。
大きな病気で入院すると、途端に貧乏になってしまいます。

まして自分が財布もとだとしたら。とても悲惨なものになります。

入院の治療の合間に計算機をぱちぱちとたたく気力が要ります。
人生設計の線の引き直しをしなければならないのです。
世の中はどこに落とし穴があるかわかりません。

陸からは優雅に見える見えるアヒルの足ふみポート。
その努力の結果ということになります。
だから負けない気力と負けない気持ちが大事です。

3か月が過ぎたころ。四点杖を持っての車いすでの退院許可が出た。
私が脳出血で緊急入院している間に、お隣の集落に犬の宿のペンションができていた。
もともとペンションは一年近く空き家になっていたのだが。
よそから転入してきた人たちだとか。
「弁天荘が止んでいる間に。犬の宿に切り替えたら」と
耳元でささやいた人がいたとかいないとか。
いろんな噂が流れてくるが。人は人。我は我だ。

空き家になっていた、中古物件を買って少し改装して入居したらしいのです。

いまだに「隣に越してきたものですが」という挨拶は一度も受けていない。
坂を登ったらすぐの場所に、住むようになったのだから。
ただの居住者ならいざ知らず、同業の世界に身を置く以上。

一言ぐらいは挨拶して来ても、道理は悪くないのだが。
と、ぼそぼそ思いながらも。
訪ねていく用事もないので多分私も死ぬまで、顔を知らないで終わりそうだ。

焼きナス

私は車いすで退院して、一週間後に夜中に主人の救急車の同乗者になっていた。
主人がくも膜下出血で倒れた。今度はアッパーカウントか。
打たれ強くもない私が立て続けに受けた試練。
「神様は乗り越えられない試練は。与えられないのですよ。」そんな言葉に支えられて。私には今何が残っているのだろうと考え続けながら。
フラフラになりながら私は、雨の日も風の日も主人の入院している日赤病院に通い続けた。タクシーに、車いす乗せて。毎日通い続けた。
半年後、波が引くように静かに、息を引き取ったわたしの主人。

瞬く間に「人生というノンフィクション」が繰り広げられ。
風のように吹き抜けて行った。

いや、言葉を正そう。
これから吹いていく事の方が、恐ろしい現実なのかもしれない。
何が起きてもおかしくない、地球上の温暖化現象。


世界のどこかでは、血で血を洗うような戦争の日々。
痛ましいテロの事件もリアルタイムに入ってくる時代。

60歳を超えて人生という物語の現実が、切なく感じてくる。
命があるだけ丸儲け。とも思い。


みんな少しづつ歳を取って行くけれど。
長い間の日々を平穏に積み重ねていく大切な相棒たちだと思う。


独りぼっちの私が、ウインドの中にいるうつろな目をしてこちらを向いている姿に、たまらなくなって箱入り息子として迎えた。「すぐにはお渡しできませんご家族の方と相談してからもう一度おいでください。」という店の店員に。名刺を渡した。「責任者の方に連絡してください。私は今度、いつ高山に運転して出て来られるかはわかりません。責任を持って育てます。うちの大事な看板犬になる仔ですです。」ひさびっさに熱く語った。
そして最初で最後にしようと思いながら、大人のやんちゃを押し通した。

お店の店員も責任者の人もみんなでお店の出口まで見送ってくれた。
「ジョンノ家のお母さんでしたか。
私達の業界のルーツのような人です。お母さんの所に引き取ってもらえるのでしたら。この仔とっても、幸せなのかもしれません。」
そう言って駆けつけてきたトレーナーは私の差し出すお金を数えて、レジに収めていた。ジョンは犬の絵のかいてある、段ボール箱に入って私の車の助手席に乗った。箱の上からシートベルトかけて。

狭いショーウインドウと比べると「広すぎるジョン家」に連れられてきて戸惑っているようだった。遊んでほしくてしょうがないようだ。

弁天荘の玄関前

一代目のジョンは大きくて立派な赤犬系の柴犬。
「お食事処弁天」の看板につながれていた仔だ。

その仔と比べるといかにも看板犬を名乗るには、きゃしゃで落ち着きのない気がした。ミニチュワダックスは人気の犬だったから。看板犬になる資格は十不あにあった。血統書の証明書も添えられてきた。

しかし住み始めた順番はそう簡単に替えられるものではなく。
「ジョン」と呼べば茶色いミニチュワダッククスが振り向き。

「レオン」と言えば優雅さなんてどこにもない。
何代も交じりに交じった「柴犬」とも「シェパード」とも、「ラブ」ともいえない。太らせた「ワイマイナー」のような短毛種の雑種が、いつまでもお座りをして、お利口さんぶりをアピール。私の方をにこにこと見つめている。

一代目のレオンも捨てられていたことには違いなく。
鍾乳洞付近の民家でご飯泥棒をして御用となったらしい。
おなかがすいていたのでしょう。人間のすることに、怒りを覚えながらも、保健所に引き渡されたことを、広報無線を聞いて。すぐ引き取りに行った。
飼い主と間違えられて、保健所の担当官から、コテンパンに説教された。

一週間後に引き渡すということで私たち夫婦は神妙に迎えに行った。
レオンはうれしそうな顔をして、私に飛びついてきた。
私達は、その足で獣医に立ち寄り、身体検査をしてもらい、狂犬病の注射も受けた。人間に裏切られたであろう。


初雪です。

ジョンはの名前の由来は「太郎という名前はアメリカではなんというのかしら」と何気なく主人に訪ねたら、猫を背中に乗せて炬燵で猫と遊んでいた主人が「ジョン」でないかとぼんやりした声。
あんな頃がとても懐かしい。
主人の背中でじゃれていたミーコも。今年の春に虹の橋を渡った。
今ころは主人に引き連れられた一代目のジョンやレオンや、ミーコたちが喜んで空ではしゃいでいることだろう。

太郎と呼んでいたその犬は、大きな柴犬系のメス犬だったのだが。
「犬も歩けば棒にあたる」という絵かるたを読んでもらって、幼い私は「犬は歩くと、棒でたたかれるのだ」と本気で思っていた。

「ついておいで。太郎は。わたちが守ってあげるよ」
そう言って綱を握って歩いていたそうだ。小さな小学校にもまだ上がっていない少女の歩調に合わせて、その犬は従順について歩いていたそうだ。
私は太郎が友達だった。私はそのころから犬が大好きだった。
犬がこわいなんて一度も思わなかった。

世の中の空気がペットブームを呼んで、それが瞬く間に、追い風になった。
ジョンがつながれていた看板は、「ジョンの家」という看板に塗り替えられた。
それまでは「お食事処弁天」という。食事処だったのに。
私はジョンに、大きな大きな犬小屋を作ってあげたことになる。

25-5-30花とレオン3枚目.jpg

いつしか法が変わって、動物愛護法ができて、瞬く間に乗鞍スカイラインや新穂高。上高地など国立公園地内はペット入山禁止になった。
時代が変わる時は何の規制もない。
後から法律ができ。後からいろんな規制が自序にできてより強固な壁を作っていく。国道沿いのジョンの家は絶対必要不可欠な存在の館になった。

車の中に置き去りにするには暑すぎる。
炎天下のアスファルトの道路を、はだしで連れまわるのは酷。
という知識が飼い主たちに広まった。

「はい、命、預かります。」「短い時間でも契約書かいててください。」こんな感じで預けて遊びに行くのが当たり前になった。

私の人生は好きなことから切り替えて正解だったのかもしれない。

ことしのカレンダーが出来上がってきた。
ペットと泊まる旅館弁天荘。いつもお渡ししている小さなカレンダー。
これは私の宿の電話番号を渡すようなもので。
その小さなカレンダーに乗った犬たちは相変わらずたまらない可愛さがある。いらないという人はいない。

そして宿泊記念に移した写真もみんな思い出のアルバムから探しておられる。
その作業に夢中なので夕食までの時間はあっという間に過ぎてしまう。
廊下をずっと探して眺めておられるお客様。

ことしから。私の下手な手書きのお手紙もつけるようにした。
活字であふれている時代に、唯一手書きのお便り形式のお礼状。
心の橋に思い出してもらえることをことを願って。

最後まで目を通していただきありがとうございました。
今年も師走の月を迎えました。ありがとうございました。

年末年始。まだ空いている日もありますので、公式ホームページの予約カレンダーでお日にちを確かめてみてくださいね。
現地に問い合わせていただいても構いません。

今年は暖冬だとか。まだ雪がありません。
しかし雪のない冬なんてありえませんので。かくごして頑張ろうと思います。
飛騨の冬の雪はさらさらだったのですが。暖冬ということはまた重たい雪ということなのです。今年は雪おろしに費用をかけたいと思います。
雪害が出る前に。

山菜炊き込み飯

いつもありがとうございます。
今夜も長いお話になりました。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
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