年末年越し組のお客さまをお迎えして。

大テマリの花

今日は12月30日。
何と一年の過ぎ去ることは速いものだと思うのですか、みなさんはどんなふうに年末をお過ごしでしょうか。
おかげさまで雪のない今年ですが。
忙しくあわただしく過ごさせていただいております。
わたしはペットの宿をやっていてよかったと思っています。今夜もたくさんの犬たちがおとなしく眠っているようです。

わたしがなぜ女将でありながら、調理室に立ち続けるのかというそのあたりから少しお話してみようかと思います。
わたしがこの宿を増築したのは平成2年のころです。
昭和48年10月に父の始めた民宿を。家事手伝いのようにしてお手伝いしておりました。何も知らずに。一生懸命お皿を手洗いしていました。

そのまた昔をさかのぼりますと。私が高校へ通い出したころは、世の中は大学紛争の真っただ中で。フォークソングのはやっているころでした。
反戦歌の歌がもてはやされるような、そんな今から思えば青酢っい懐かしい、そんな時代背景のころでした。

多分このブログを読んでくださる人々にも、それぞれの時代が花開いたことと思います。今となってはなかなかひも解く事すら古めかしく。
過去の思い出はただ懐かしいとしか言いようがなく。
自分自身が重ねてきた歳つきすらも懸命に走りすぎてきた、思い出のひとかけらにしか思えないような。黄昏の夕日にも例えるべき、音すらも消えゆく次節に向かったのだと気づかされるこの頃です。

庭の石が気にも花咲きました

あのころ日本中の学校が木造から鉄筋コンクリートに代わるころでしたのです。
当初の民宿は学校を移築して少しデザインに手を加えてたような建物でした。
現在の母屋に渡り廊下でつないだようなものでした。

なぜかというと、当時「小学校一棟が、5万円で入札」できたのです。

もちろん落札したところで、約束期日までには取り壊して別の場所に移動しなければならないことは。必然的なことなのですが。

子供たちが毎日通う学校はより安全な建物でなければならないと。
誰かが言い出したのでしょう。
飛騨の山奥のわずかな土地に建つ。
コンクリートの建物にする。という大目標があったからにすぎません。
今となってはそれが最善の方法だったとも思いませんが。
当時はそれが一番の文化であり、最新の教育で有り。
斬新な箱ものだったのでしょう。

運命とは不思議なものです。どこをどうまがってか。
その取り壊す学校に縁がありました。
母屋のちょうど上手に何とも痩せた小石だらけのまとまった桑畑がありまして。
その桑畑にぽつんと一棟。建てたのが民宿弁天荘の中期の建物です。
昭和48年から昭和63年までが民宿弁天荘とお宿弁天荘にに変化していった15年ほどの時の流れです。
そのころにみっちり祖母からも母からも家庭料理は習いました。
そしてダメ押しに調理師の資格もそのころに取得しました。

反保母の種

私はは学校を5万円で一個買ってきました。
そして3000万掛けて使えるように移築して宿屋にしました。羽織の紐をもらって羽織を作るようなものです。5部屋ほどから始めた民宿から、本格的な宿屋として安くとも、数でこなす宿に、打って出たのです。
骨組み自体は木造の建物でも。其れこそそっくりリフォームすれば。
全く新しく壁も床も新しく建てたものと何ら変わりがありません。
合掌の棟組は小屋裏防火をして。コンパネを二重に張れば、かなりしっかりした床材になります。そこにじゅーたんを張ろうが、クッションフロアーを張ろうが張も柱も正板でくるんでしまえば、一瞬大きな柱とすら思えてしまう。
新建材に抵抗のない時代が、おしゃれという言葉と引き換えに。
そんな既製品だらけの、数を追いかける「チョイ宿の床にでもある半分セルフサービスのような形が前に。大手を振りながら進んでいきました。

スキー客を入れ、合宿客を入れ。子供たちの修学旅行を入れるのは、その程度の箱もので十分なのでした。そんな安くてきれいでという時代が求めるのはそんな建物でよかったのです。むしろ味のある建物のほうが敬遠される時代でした。

消費税が導入される前に。
これでは根本的に将来性は薄いと判断した私が。
「もっと私らしい建物を建てよう。」と言い出したのは、昭和63年の年です。
そのころ、私は、マイクロバスを乗り回していました。
大型免許で運転できるサイズの一番大きい物29人乗りのマイクロバスで。
にゅうかわグランドに野球チームやサッカーチームを朝昼晩と送り迎えをしていました。自動車学校で大型面気を取得している間一日に一時間足らずではせっかくあけた時間がもったいないと。大型特殊のベルローダーの免許も取得しました。
あたまの上かバケットのアームがついた、大きな二輪車のフロントガラスから見る自動車学校の敷地内の、交差点は爽快なものがありました。

其れまで2500万円借りては、5年程度で管財し。
次に3000万円借りてまた6ねんか7年で完済し。
同じ敷地の担保を入れたり。ぬいたり。
まるでゲームのように。
「シーズンにアルバイトを留めておく棟がないので」と。
其れじゃぁ「あと5部屋ほど作ればいいかなーっ」て思い。
500万円程で4か月で建てさせたた建物もあります。

レンギョウの木も雪で押しつぶされて

ジョンノ家に行くまでの格好の悪い建物。
8月にその年のスキー客の予約団体を取って、旅行会社廻りをしていましたら。
何とも人手が足りません。
「其れじゃ学生さんにスキー場の一日リフト券を最終日のご褒美につければ気軽にアルバイトしてくれるかなー。」
そんなことおもいました。そして客とは離れたところに寝床を作りました。
世の中がそれほど豊かではなく頑張れば目標を達成できる時代でした。

アルバイトニュースなどの小さな雑誌が飛ぶように売れた時代です。

走って走ってはしりぬきました。空っ風の中を転がる木の葉のように。
昼間はセイター着て農協のAコープに買い出し。
夜は小紋や紬程度で宴会場の挨拶。
料理運び。そして一人一人の席へお酌して回り。
2時間ほどの間に着物ぬいでスーツ着たり。いそがしい事。でも楽しかった。

わたしにとって着物着てお酌することは。何でもない事でした。
翌日またスキー場へ。スキーのツアー客乗せて走るのですから。
カラフルなジャンパーは追って。男よりもかっこよく。

何のことはない衣を鎧に変えて、戦いに行くこととはなんら苦になるものではありませんでした。むしろ面白かった。
自分の船を信じて、漕ぎ続けることは何ともスリルと冒険の夢の中に自分のありかを探すということなのです。
作業はとても楽しい事なのです。あのころは若さがあったから。若さという怖いもの知らずの無謀さは何でもやれて。何でも口にできる。それが恥ずかしいほどに若いというあかしでもありました。

経営方法も理屈も何も飛び越えて一人身の若さというものが、はち切れんばかりに
その面白さの延長でこの「旅館弁天荘」が建ちました。
父に頼んで120年くらい前に。曾祖父が植えた檜山から、手ごろな三方無垢の檜を何十本か伐採してもらいました。
地元の風土の中で育った木は、一番その地域の四季の中で年月を重ねても息をするかのようにただ図んでいけるものです。
黒ずむこともなく。其れなりの愛着を持って、樹木の生命が残されていく。

異質な外材を取り入れて、バンバンたたいて作るのとは違った。
持ち山の木を切り出すこだわりで。
森林組合の伐採チームから始まり。きこり。運び出しの索道。
楽しみながら製材して。材木が柱になり板になる。
この喜びは家を建てた者にしかわからないわくわくするプロセスです。
散々設計士にも建築会社にも。
「それでは私のやりたいことができない。人の作った既製品ではいやです。」
と言い続けて大見得切ってとびだ゛していった舞台だったのに。
さあ走ろうと助走してこれからという時。歌舞伎の馬の役の前足が花道をのリズムよく、けっているうちに。バブルがはじけました。

しかし考える時間があって。よかったのかもしれません。
そこにはは回転してまだ間もない小さな宿の誕生から。
いきなり自滅するジェットコースターのような、エンジントラブルを知ったのです。そういう危機感が私に考える知恵を授けてくださり。

しかし不思議なものです。神様は本当に信じる者の所には立ち寄ってくださる。
救いの手を差し伸べてくださる。
時代の中に「始まる。犬の世界」がありました。
私のひらめきが瞬く間に風をおこし。
地元での変わり者も、遠くから通ってくださるお客様に支えられて。各局のテレビ局が私の方針をただで宣伝してくれました。
時代の追い風が、背中を押してくれました。

小さな蝶々でも。気流に乗ってアルプスを越えて羽ばたけることを知ったのです。

しかし、私の宿の在り方が落ち着いて順調に回り出したころ。
母が乳癌で亡くなりました。上がれば下がるそれが人生なのかもしれません。
そして父の悲しみが母の面影を残す私に注がれて。
祖母の地道な懸命な姿が私の中にあり。
父は、娘の私にどっぷり甘えて。
自分の好きなことに夢中になって行きました。
青空に桜吹雪

弟が。「いつまでも都合の良い。飯炊き、洗濯女として姉貴をそばに置くのはどうかと思う。一度は反対する理由がないのなら。結婚することは認めてあげなければいけない。」
その一言で、独身生活に見切りをつけて彼と私は結婚しました。

彼のもとに走ったのではなくて。
彼を家を継ぐ「私の婿」として一族が両手を広げて迎えたのです。

そして彼は鳴り物入りでわが家の主の席に座りました。
集落の集まりにも彼は「森のはんてん」を着て、出て行ってくれました。
きっと窮屈で。居心地の悪いものだったことでしょう。
外とすぼまりの内広がり。外面のいい男は、中では意外とやんちゃな者です。

「まどろっこしいお食事処なんて、やめちゃいなよ」どうせ夫婦げんかのもと造るだけなんだから。そんな天の声がその時も聞こえたような気がします。
そして半年で「お食事処弁天」から「弁天荘ジョンの家」に改装しました。

お茶目で天真爛漫の朗らかさは。その場の席の笑を共感して。
愛称はいいのだろうと思ったのは、お互いの錯覚だったのです。
だから生きるために、亭主をカヤの外にしました。

からっとした夕立の後の晴れ間のように。比較的周りのみんなに受け入れてもらえたからです。
でも亭主として隣の座布団に座る人は、何かといちいちブレーキを踏んできます。

私は自動車学校の教習車に乗っている気分でした。
お商売の事も農業の事も何も知らない、都会のサラリーマンが。
私の亭主の席に座り。いつもブレーキを必死でかけていました。
それが役目であるかのように。
そのくせ亭主ががやらかす失敗のしりぬぐいは、みんな私がしてきました。

ジョンの家で「犬を逃がしてしまって」やくざのような脅しをかけられたときだって。理不尽すぎる「犬への愛情という理屈が」前に立ちはだかり。
逃亡した犬が発見されるまで。地獄のような年末年始を過ごしたこともあります。
望んで連れてきた人でしたが、私の亭主は気が小さかったのでしょうか。
私もその性格が写ってしまったようで。

明るかった性格の私がだんだん暗くなっていきました。頭一つ出ると出分だけたたかれます。たたかれた釘は柔らかい板なら押しのけて入って行きます。木の性質が固いと釘のほうで曲がってしまうのです。
いろんなことにチャレンジするのが楽しくて楽しくてしょうがなかった、長い間体験してきた娘時代とは。
手のひらをひっくり返したような感性の違いが見えてきました。
水仙さきました。

暗い影を引きずる黄昏の光の中に、お互いがあり方の理想を見違えてしまったのかもしれません。
生活と恋愛とは全然別のものという重大なことを。

私は多くの知人友人親戚縁者を呼び。
盛大なパフォーマンスをしてしまったのです。
結婚式という神様まで巻き込んでついた誓いの言葉。
「ハーイ。あれはなかったことにしました。」その一言が言えなくて。

結婚とはちょっとした事業や、起業よりもはるかに難しいものです。

そして誰にでも浮き沈みはあるというもの。
「其れを言ったら、おしまいよ」という天の声が聞こえて。

わたしは言い合いには、自分自身が一番疲れること。
よく知っていますから。
冷たい言葉を投げかければ氷のように冷たくイガイガの傷だらけの言葉が返ってくるものです。だから早めに白旗あげて。降参することにしています。

すぎの木を巻にする予定で干しています。

若いということは。其れだけで勝負に勝ったようなものです。
若さというものは年相応にあるもので。20代には20代の若さ30代には30代の若さがあるものです。
そして50代にも60代にも。ふさわしい年輪の若さがあるものです。
生きてきた日々の暮らしの中で切りとって。なかったことのようにできるものなら。「私の40代から50代が」なかったことにしたい。

そこが苦悩の曲がり角だったかもしれない。そんなことを思う日もあります。
男の人は30代から40代に迷うものらしいですが。
彼もまよってわが家に来たのでしょうか。そして私の隣に暮らしていたのでしょうか。 亭主の7回忌。後は13回忌までお休み。

おかげさまで一人身の独身の、成れの果てのお一人様ではない。
後家さんという田舎社会での社会的地位を得ています。
「哀れな、後家さんという役どころ」をうまく演じきれない。
私なりの、ありのままは、ちょっぴりどこか普通とは、はみ出していますが。
だから夢見る少女に戻れるのです。

でも私はとても楽しい人生を歩かせていただきました。

本当に。
この壊れかけた重いい肉の塊を引きずって、もう少しだけもう少しだけ。
歩いてみようって思っています。
犬たちがいろんな明るい気力をくれるから。
猫のしなやかさとも違う。あの犬のバカ正直さと。賢明な姿に。
切ないほどの前向きさを、感じるから。

何か楽しいことが、まだそこに落ちているかもしれないから。
カサコソット足跡についてくる枯葉の音ですら、木のの葉をめくってみるとそこに、天然シメジの株が枯葉を持ち上げるように。生えているかもしれません。
それが生きているだいご味かもしれません。

そう思うと、なだらかな山道を下って行くのもいいものです。
景色が見えて。木漏れ日の中にいろんなパワーがあるのです。
そして自分が、「今」という時にしておかなければならないことが
一つ一つ見えてくるのです。
どうやったらこの橋を渡れるか。しゃがんでみたり、ちょっとだけ背伸びしてみた
り。
方程式を解くように説明はできません。
今までがどれほどの付加価値なのか。

これから先がもっと自分を究めるものなのか。
只、やりたいことの袋のチャックだけは開けておかないと。
開けた袋を閉めるめる事が、いつになるのかわからないのです。

山菜のてんぷら

只。人生は行き当たりばったりではありません。
そして走りながら考える時代も過ぎ去りました。
もう私には、体力がない。日々を流されないように。
「いつまで生きていられるでしょうか。私。」
そんな目で父の背中を見送っていることあります。
限界集落の中に、沈む夕日を見ることもあります。
そこに暮らすことは理屈ではないのです。
そこの土になっていく事なのですから。

次に芽吹く者のために。そんなこと思います。
自然に沿った生き方をするために。


愛する犬たちや、猫たちの最後すら見届けられないのかと思ったりする日もあります。除草剤の散布していない大地に座り。心地よい風に吹かれながら。

わたしは犬たちや猫たちに囲まれて穏やかな癒しの気分に浸りたい。
生活苦にあえぐこともしたくはないけれど。

野に咲く素朴な美しいものを。美しいと眺められる人で有りたいと思っています。
だから来年の桜が咲くころには、農協の大型トラクター入れて。
「また一年。生き延びる種をまこう」なんて思っています。

犬や猫たちを、これ見よがしにする人は悲しい気持ちで見ています。
人間も犬も雑種のようにたくましく。

骨身を惜しまず、馬鹿になって生きて行ければいいですね。
それが現状で一番崇高な自然にそつた、生き方なのではないでしょうか。

ふきのとう

田舎に生まれて田舎に溶け落ちて行けることを、幸せに思っています。
誰にでも宝物のような思い出はたくさんあるものなのですが。
金平糖の袋を破った時のような甘い小さな粒が脳の中に広がって。
いくつになっても天真爛漫な少女のように。
おしゃべりしていられる自分の幸せをとてもありがたく感じます。

これで、今年が最後の一日がはじまろーうとしています。
長いブログに、いつものぞきに来てくださりありがとうございます。
12月31日の夜も更けていきます。このブログは誰でも日本中の人々が見れるブログです。私はこんなふうに生きてきました。「そしてこんなふうに夢」を見ています。という長い物語の事実のの1ページでしかありません。

最後までいつもありがとうございます。良いお年をお迎えください。
次のブログは新年になってからです。次は過去ではなく、未来を語りましょう。
では「ブログ書いておきました。」義務感を果たした感覚で。
もう寝ます。明日も頑張りますので。
よろしくお願いいたします。
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