雲間から晴れた光。

皆様おはようございます。
私がパソコンを始めたのはJTB旅行会社とお付き合いしてた頃ですから、そのころパーソナルコンピューターというものを知りました。
以前はそれ以前は旅行会社からの予約のやり取りはテレックスというもので同じようなことなのですか通信のみの物でした。


赤カブ切り漬け
それは縦型の1メートル10センチくらいの箱型ミシンくらいの大きさでした

予約は大きな紙にパタパタと入ってくるもなのですがタイプライターのような、かんじでやたらにやかましかったということを覚えています。

それから2年ほどしてパソコンというものに変わりました。
バージョンアップを何度か繰り返して。
今でいうとじゃらんや楽天が持つようなぞれぞれの宿の内容がわかる専用のページを持って対応するというものだったような気がします。
飛騨リンゴ

あれから旅行会社はすべてこちらから
部屋提供をすべてお断りし契約解除にしました。
協定の更新料金もそう客手数料もなく
地域のそれ其れの会社の会合にも出なくてよくなりました。
なんだかとってもすっきりとした。

なぜだか牧場にはなたら田牛のような気分です。

やかましい制約も指導も教育も更新のつど揃えて提出書類作りにも、
頭を悩ます必要がなくなりました。

犬の宿は厄介なひも付きでなくて、真心からお客様にありのままを接していればよかったのでとても喜んでもらえました。
ゴールデン集合


まだまだ。犬の宿が増えていく限り、需要は増していくでしょう。
お客様の好みが多様化して行く限り宿の形は小粒になって行き、目の届くサービスができる宿になって行くことでしょう。

ちょこっとまとまったお金があれば退職してペンションやりたいからなんていう希望の人々がたくさん様子見の視察にいらっしゃるようになりました。
私もいろいろやりました。2個目のドックランやジョンノ家にとれなーを置いたりトリマーを置いたりして新しい事にもチャレンジしていました。

なかなか若いということは元気のあることはそれだけで世界が本当にバラ色に見えるものなのです。バラ色なんて言う言葉は大げさに聞こえるかもしれませんが、そのころ決して見えなかった黄昏の目をしょぼつかせるようそういう感じのものは決して想像がつかないものです。

あれから軽く30年。ページをめくるように時代が通り過ぎて、その間に母を亡くし夫を亡くし私が脳梗塞で脳出血になり半身不随になり。せっかく覚えたパソコンも触れなくなりました。


これから商工会のセミナーに出かけてきます。後でまた書きます。
では後程。

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明日は商工会セミナー。3回目

あっという間に変身

明日は商工会セミナーの外国人誘致について習ってきます小規模事業継続資金継続の国に申請するレポートも、下見してアドバイスしてもらいます。
明日の先生はとても楽しい先生で昨日の岐阜大学の先生とはぜんぜんちがうお話の仕方なのでつい引き込まれるように話を聞いていると勇気も元気もわいてきます。明日の12時゛20分に家を出て仔今度の会場は高山市国府町。
また商工会の職員さんが迎えに来てくださるので申し訳ないくらいありがたいです。
いよいよ着物着ます
きものは順調に加工して揃えていく準備しています。
昨日の大散財の修繕が落ち着いたらまた稼いだ分資本投資です。
やっぱり夕日かなー。
黄昏の光を感じながら進む仕事より。

未知の未来の光に向かって進む仕事のほうがなんじゅうばいたのしいかしれませんね。
お客様の口コミがどんどん広がって。
そこそこの夢の花のつぼみが咲き始めることを祈って。
じゅんびゅをしている間からとっても楽しいです。
私は玄関の屋根雪下ろししなかったおかげてで、へ仕込めてしまって、大散財作ったのに。昨日はかなりしょげていましたが、めげないおばちゃんです。

お金を査定してもらって調達していく見通しがつけば、喉元と織ればばやれやれなのですすぐ修繕してもらって、元道理にしてお客様をお招きするようにしなければなります。今年は大きな雪害ですトヨはほとんどダメになっています。これだけの只広い家の周りを雨どいが破損すると物入りなことです。

古民家着物体験館全景

トタンの長尺の竿のところも氷で凹みが出ています。
建物の修繕費は、結構まとまった金額になるので保険で100パーセントが賄えるわけではなく、結局は出費なのです。
世の中何が起きるかわからないので頑張るより仕方ないのです。
歩くのは自分なのですから。
きものを見ているとうっとりします。
かわいらしい友禅柄の小紋や懐かしい絞りの柄の帯も。
そんな楽しかった娘時代を思い出させてくれます。

着物を着て大はしゃぎの中国娘


私は出来上がってきた着物を着せてあげられる日が楽しくて仕方ありません。
私は着物着せて、あっという間に変身。若い外国の娘さんたちの、笑顔の中にいることは若返ります。
今日は短くしました。最後まで読んでくださりありがとうございます。
飛騨の春はちょうど3月20過ぎて雪が解ける頃から始まります。
4月14日15日は高山祭です。
春祭りから秋祭の間しっかり稼がなくてはって今年も頑張るぞなんて気合い入れています。

弁天荘ジョンの家から見る前景.jpg
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雪との戦い。

なんか頂戴レオン
昨夜の雨は春になる兆しの雨でした。
母屋のふすまが立てつけが悪くなったので。
父が大騒ぎをするので、大工さんに「来てほしい」と電話して、
「明日の午後立ち寄るから」とのことでした。
いつもあちらこちらを修理しているので棟梁が見にに来てくれました。
玄関の軒下に立った途端に。
「ダメじゃないかこんな雪ためていては」
と叱られました。「
のきの垂木が折れているではないか」と言われ見上げれば、確かにひびが。

「土建業の経営は、副業をしながら持ちこたえなさい」
という苦しい選択をさせられる指導の世の中が続きました。

社員は土建会社の給料もらいながら、コメ作りをしたり、別の仕事を行政からの入札の仕事がないときは、副業の仕事をやり続けなければいけません。
そんな土建業にカッコよさや、たくましさや収入を求めた地元の若者たちもいつしかいい年格好の中年のおじさんです。村の新しく若いものを引き留めておく行政ではなかったのです。

庭木の手入れ

みんな曲りなりとも大学を出て、サラリーマンになって行きました。
はっきり言えば、列島改造論のブルトウザーも錆びついている時代があったのです。

父も国道に農地を売らざるを得なかった事の運命の選択が、わが子のために始めた「民宿家業」だったはずです。
だから突然業界違いのダークホースとして躍り出た父を見捨てて、私は「看板娘」として頑張ってきたのです。今では一枚看板のお婆です。

当時の父ののお気に入りの大工さんは、〇〇大工さんはもう病に倒れて、見る影もありませんが。その工務店の設計士さんが引いてくれた図面が今の弁天荘のロビーの上にある屋根です。
その当時はおしゃれなスキー場から三角屋根を見習ってきたらしく。
屋根のはしはみんな切り落として三角にしていました。
それが彼は、流行の最先端だとでも思っていたのでしょう。
私もまだ若かったのでどんなイメージでどんな客層を相手にするのかすらわかっていませんでした。だからその形でも受け入れてきたのです。

宿の前の道.jpg

平成2年に鉄骨二階建てを立ててリニューアルする時に、父の自慢の山の巨を切り出したヒノキの歳で柱を作ったという、父の自慢のお風呂と便所の建物をを壊しました。風呂は漏れるしトイレは昔四季の和便所。漏れない浴槽。洋式のトイレ。
子供というものは、えてして親の引いた道は歩きたくないものです。

壊して更地にして新しく立て替える時、まだ私は若かったので頑張れたのです。


弁天荘全景夏

そして玄関の軒下が、雪の氷とともにくの字をを左右に沿着伸ばしたように。
たるきがなんぼんか折れただけなのですが。それでも大きないたでです。
玄関の子屋根の垂木がへし折れたのは、人災に至らなかったのは。
不幸中の幸いです。

「にゅうかわには、昔のように屋根に上ってくれる土建屋さんは、居ません。
道路の雪かきだけでも、忙しすぎて。誰か紹介してください。」

玄関先なので、よく目だって、とってもかっこ悪い事になります。
かっこ悪いので。
すぐにでも保険屋さんに査定してもらって安心安全の修理をしなければなりません。何にしても物入りなことです。

今朝、集まってくれた大工さんのお声がかりの左官さん達が、驚いたように黙々とみんなで雪下ろししてくださって。
総合庁舎から帰るころには大勢の人々で夕方までには、
300坪ほどの建坪の屋根の雪が降りてしまいました。春先じわじわと雪が解けていくのも安心して眺めていられます。

25-5-30花とレオン3枚目.jpg

こんな日に「犬の動物取扱いセミナー」に出なくてはならない事が、やり切れませんでした。しかし今日行かなければあとは岐阜まで行かないと、それはジョンノ家の継続祖更新にも近い大事なセミナーなのです。

「うちのゴールデン。みんな売れてよかった。予約がついていてうれしい。」などと小声で話している不届き者もいます。

漏れ聞こえる後ろの机から、(命をみんな売れてよかった)というように聞こえてくるようにさえ感じ、ストーブをガンガンたいた大会議室でぶるっと身震いしました。
こんなに、にわかブリーダー的な人が増えてはいけない。
犬はおもちゃじゃない。そして人間を引き立たせる道具ではないのだ。
流行を追っちゃいけない。「無償の愛」を注げないのなら儲けの材料にしてほしくない。
冬の全景

「なんとぼろい、建物でしょうねー」と吐き捨てるように、いきなり後ろから気さくに声かけてくる中年女性がいました。「ほんとよねー」と答えてくれるのを望んでいたのでしょうか。

「岐阜県には税金が足らないからでしょうよ」と答えてしまった。

いつも形態電話は事務所の机の隅っこに充電したままの私が、公衆電話を探してみたが見つからない。
タクシーを呼ぶこともできず、困っていたところに出会った中年の女性だった。

「御親切に、ありがとうございました。ご縁がありましたら。また。」
と言ってタクシーに乗った。

ホシガキツルシマシタ

「高山なんて限界集落みたいな町」と切り捨てたように、口を滑らしたあの銀行の次長さんと同じ感覚の匂いがした。
「よそから見ればそんな程度かもしれない」
でも「ぼろは着てても心は錦。」ああーそんな歌が昔はやったっけ。


「私はあなたとは違いますよ」と言いたげな。
この婦人に名刺を渡したところで何がどうなるのだと。大人になることにした。
心で決してひざまずく事ののないにゅうかわ気質が、心の隅っこから、こぼれ溢れそうになるのを、抑えるだけで精一杯だった。


「やめていく同業者が数ある中。どうなるのかなー。」っていつも頭の隅に、
「ギブアップ」の言葉がよぎります。

岐阜国体の花サルビア

「ご先祖様は、この天命七年の棟札を持つこの家をを、建てる時。琵琶湖の竹生島宝厳寺からご文例をいただいてきて奉り、飛騨で初めての鷹山農家に挑んだのじゃ。浅間山の大噴火で稲も作物も飛騨では何も取れなくなってお蚕様を飼うことで危機を逃れたんじゃ。向かいの家も隣の家も、みんなこの地域はお蚕様で生き延びたのじゃ。日露戦争のころ、郵便局をしとった時もお蚕様は大事な仕事で続けていたからこそ。昭和の初めまで養蚕で、先祖様たちは代々をつないで来たのだ。」
「歴史では食べて行かれないよ」


「ああ、聞き飽きた」という言葉の代わりに、水カメにふたをするように私はいつも言葉をさえぎってきた。
この玄関の垂木が雪で折れたことが、ご先祖様が、教えてくださり、お客のいない日曜の朝に、人差し指一本付いて教えてくださった事なのかもしれない。
借金返済のけじめをつけるために走り続けてきた長い坂道。


かかわっている私の周りの人々が、みんなで走り寄ってきて。重たい屋根の雪を下ろしてくれたこと。屋根の下で途方にくれてる私。年寄2人と身障者ひとり。
感謝の気持ちで胸が張り裂けそうです。

道路端の葵

タクシーで帰ってくるとき町方という集落に中部縦貫道の大きな橋げたがいくつか、かかかっているのが目に入りました。


今日総合庁舎でお会いした婦人も「私の友人が、高山の清美で犬の宿やっています。とってもリピーターが多くて。山菜やお野菜がとっても人気なんですって。」と誇らしげに言っていた。

「人それぞれ。」私が始めてから「そこいらじゅうで皆さん犬の宿、やられていますよね。」と言葉を濁しました。
15000円前後を高いと言われてしまったら、もう後が出ない。
「仕入れの高いお肉などをたくさんお出しするには値段もあがりますよね。」
「私のお友達のそこは山菜やお野菜がとってもおいしいのですって」
その婦人の口元からは、「あなたもそうしなさいよ。飛騨なんだから。」

乗鞍岳のスカイラインにマイカーで登れなくなった時に、「車の中に置き去りにされた犬が泡を吹いて苦しんでいるのを目にしましたので。「これではいけない」と思って、「ジョンの家」を、さっそく作りましたよ。

(だからこの場に顔を出さなくてはならない時事情があるのですよ。亭主にも先ただたれ、かわいがっていた授業員たちにも見切りをつけられ、トリマーもトレーナーもみんな逃げ出しちゃいましたから。何人責任者を変えても立て続けに毎年変わっていたら。
「女将さん。経営者なんだから、あなたが出てきてください。」
そういわれてから通うことになったセミナーなのだが。)
そんなありのままにを話す必要もなさそうなのでそこまでは離さないで

「人にも犬にも命がある限り、思いやる気持ちがだいじですよね。」
とダメ押しして、私はちょっといい気分になった。

この(飛騨総合庁舎をぼろい、と言い放ったあなたには、わかるまい。)
かたくなな老人の心が、私の心の中を支配し始めていました。

歴史はプライドは生むが。
プライドでは飯が食えない時代になってきている。

サツマイモ取れました 001.jpg


大工の棟梁が、私を叱り私に自分の仲間を、雪下ろしに駆り立ててくれたのも、やっぱりご縁だと思う。
「大広間を、もう宴会なんて、しないのだから」と
「犬と一緒に食べられるお食事処」に改装していた時、大工さんの元受の建設会社がつぶれた。私はその会社の社長に、工事代金を現金で約束道理、支払った。

「みんな、不当たり手形で汗が涙に変わった」という話は、後から聞いた。
その時の板金屋であれ大工さんであれ、みんな一応に弁天荘にかかわって砂をなめてきた人々だと思う。私は少し筒お金をためてためた分だけあっちを直し。
こっちを直し。取るに足らない現金の小さな金額の領収書。
でもみんなこうゆう時に集まってくれる。力仕事ができる男ではなければ何の役にも立たない。
「一人や二人では何の岸にもにも届かないほど、わけもない事なんや」そう言って人集めに号令かけていました。

シベハす集合

「それほどでもあるまいーー」どこかで聞いた漫才師の合いの手が、私をょをクスッと笑いに誘った。サラリーマンの庶民の奥さんがうらやましがるほどてっとり早く儲かるというものではなく宿自体が多種多様にお客様が選べる時代になった。宿のお客さまも長い間にはお亡くなりになったり入院なさっり全体的にばらーと散ることになる。そんな傾向は年々強くなってきている。

話は言ったり来たりするが、あの中部縦貫道の大きな橋桁の最後の高山東インターは、私の宿から3分。
国道事務所の設計ずには、まだこの弁天荘の前の道路はこのまま使うようだ。

いくらお金がない国のお財布でもせめて歩道くらいは漬けてほしいのだが、、、。れも声が小さくなる。
「歩道をつけよ」と言えば「歩道をの分の土地を提供せよ」ということになるのが話の落ち。

今だって十分。無料で人の駐車場。
ぶつかった車も壊れた車もお巡りさんもレッカー車も。

もみんな、ただで当たり前のようにして、勝手に必要な時必要な分だけ雪かきしてなんの断りもなく平気で使っているじゃないの。

多様化しているもてなしに「着物の世界」というものをひらつかせて、客を招いてみよう。もう一度世界中から。
ペットの宿に方向転換してアクセル踏むときに私は、道に落っこちている猫たちを拾ってはとりあえず、私のバスに乗せて育ててきた。
思いは、願えばかなう。

その招き猫たちが、歳をとってよぼよぼにならないうちに。

みんなで手招きしてもらわなくては。
がんばります。おとまりにおいでくださいね。弁天荘は田舎ですがきっと心が休まりますよ。くつろいでくださいね。

犬も、売れ残りのジョンも保健所帰りの2代目レオンも。
みんな私の子だから。
みんなでワイワイ楽しく時の流れの速さを見ていよう。


まだまだ右手が動くうちはいろんな言葉を並べてみます。
これもハチャメチャな、私という人柄なのです。

「ありがとう。ありがとう。感謝して。」助ける神もある限り。
神様はそばにいらっしゃるのですね。今夜も長くなりました。ではまた。

今夜も最後まで御拝読くださり、ありがとうございました。
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久々に晴れました。

屋根からつらら

久々に晴れました。今日の気温は6度です。
太陽ってありがたいものですね。
そろそろ雪が本格的に溶け始めてくれるでしょうか。
これだけ雪だらけでは、何もできません。

畑の種をまいて、苗を植えて。そろそろ土いじりがしたくなりました。
まだ2か月は辛抱しないとならないようです。
凍った大地が解けて、ふかふかの土に耕して、そこに野菜の苗を植えます。
種をまきます。季節の始まりです。
季節が、すごしやすい春風となって、緑の生まれる季節になります。
もうすぐそんな季節がやってきます。

それまでもうすこしの辛抱ですね。
「限界集落株式会社」というNHKの土曜日の晩のドラマ見ていたら。
土いじりしている時の気持ちをよく表していて。
畑の仕事の楽しさがよくわかる。

私が無農薬もぎ取り農園初めて、お客様に収穫体験してもらったことの、最初の一歩も「こんな様な情熱からだったなー。」て思いました。

雪割りという仕事を、さっき30分ほどやってきましたが、もうへとへとです。
立ち仕事はすぐ腰が痛くなります。
年々気候が荒くなって。
夏の豪雪に、長い冬の豪雪と。
年寄には何かと住みづらくなった昨今です。

雪庇の雪も解けて落ちています。

今日は「着物体験館」の外国人用の着物と帯を加工に出していましたので、それが郵便局の宅配でとどくそうです。

どんな柄だったかも忘れていますので、とても楽しみです。
外国人はトテモ背が高いので「仕入れだ」と自分に言い聞かせてはいますけれど、「ちょっとした高いお買いもの」になります。
でも高山には外人観光客だらけ。きっとこの外人観光客の中にも着物に、興味のある、海外のお客さまもあるはず。「着てみたい」と言われても
呉服屋さんでは間に合わず。貸衣装屋さんでは貸したがらず。
てっとり早くそのシステムを作ったほうが、今の時代の変わり目に滑り込めるかもしれません。確実に世の中の流れは変わって行きつつあるのです。

お財布はぴいぴいですから、次から次と稼がなくてはならないのです。
こんなに雪にうずもれていたら春は来ません。
春が来なければ動きはないのです。
季節外れのの冬をいつまでも引きずっていても、お客様の足が遠のいてしまいます。

飛騨牛しゃぶしゃぶ

雪解けは春風が吹き出すと一気に始まるので
2月の終わりにち被いています。
これからめまぐるしい季節が始まります。
躍動の春がやってくるのです。
雪解けの合間から顔を出すふきのとう。
天ぷらに上げておいしく春の苦みをいただきます。
都会のお客様は
「ごちそうだ。めったに食べられないのだから。」と、おっしゃいます。

桜の咲くころ地面の温度も上がり種まきの時期が来ます。
ちょこっと顔を出すこごみももヨモギも、みんなてんぷらにします。
こごみはゆでてあえてもおいしいですよね。
旅館裏のドックランのそばのエゾ蕗畑も、春にはおいしいエゾぶきが育ちます。柔らかいうちに食べましょう。春に見えたお客さまには蕗5本まで自分で採集していたたく体験収穫に提供しています。
ほろ苦くて甘からく煮ると最高の食材ですね。
ニシンと一緒に煮るとおいしいですよー。

北海道のエゾ蕗

春になるといろんな山菜や新鮮な野菜が手に入るようになります。
ワラビが出る頃はもう初夏になって、ヤマブキが咲き終われば本格的な梅雨を迎え梅雨が終わればまた夏です。そうやって季節を繰り返してきました。

春になれば金沢まで新幹線が走ります。
富山から東京へ行く新幹線に乗って一度計画してみたいものです。
お客様の流れが変わります。たのしみですねー。


今年は豪雪で雪害が出ましたので大工さんに診てもらいました。
月曜日から来るそうです。
雨どいは氷と一緒に落ちかけているし、小屋根の垂木はへしこんでいるし。
今年の冬はさんざんです。
命の危険とまでは、いかないけれど、3月には保険会社の調査員に来てもらって、いたんだところを修繕。きちんと調査してもらわないと。
たとえ「お見舞金」程度にしても手当てしてもらわなくては。
全額個人負担では毎年毎年。辛すぎる。

「山スキーに行ってきた」というお客様が、立ち寄ってお話をしていかれました。

6月の高山ウルトラマラソンに参加する予定だそうです。
その時にゴールデンのわんこちゃんを預かることにしました。
依然お泊りいただいたお客さまです。もう、七歳になったとか。
まだ春の山スキーにも期待ということでしたので。その時預かることにしました。独りぼっちで留守番しているのはかわいそうだということでした。

「今度山スキーに来るときは犬連れでいらっしゃい。」
「夕方迎えに来る予定時間よ、り大幅に遅れたら遭難したんだー。」と思って
「山岳救助隊へ探してもらうように、頼んであげるから。犬は保険だとおもってあずけていきなさいよー。」

「あははー今度はそうするだぁ。まえの挽に泊まればいいんだね。」

一時間程。笑いながら世間話をして
「ではまたその必要がある時は電話ください。わたくしが生きているかぎりやりますからー」と笑って伝えた。

「はやく留守番させている犬に会いたい。いそいでかえらなくてはー。」
そそくさと帰って行かれました。

なんだかんだと言いながらも、一日が無時終わって行きます。
もう一週間が過ぎてしまいました。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。

62歳女将
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年寄と暮らすこと。父の事。

田舎の集落の中で存在し続けるということは、とても大変なことなのです。
何が大変かというと、都会と田舎ではおおざっぱにいうと「時間の過ごし方」なのかもしれません。
昨日老人クラブのこの地区の会長さんが、お饅頭の箱持って訪ねて来られました。

雪野原の中に家々が埋まっています

父のお祝いにと(88歳以上の老人にはお饅頭を配る)ことにしているのだそうです。
そして老人クラブに入らないかと誘われもしました。
ゲートボールは楽しくて楽しくてペタンクも楽しいから年に一回大会があるし。
熱く楽しそうに、その会長さんは「私に老人クラブに入らないか」と勧誘に見えています。
毎日雪が解ければこの近所の集落から60歳以上の老人の会員たちが集まってきてゲートボールに夢中になれるそうです。
充分働いた後のご褒美としてそうゆう時の過ごし方もありとは思いますが。
いなかは、まるでそれが生きていく教科書かのように。
老人クラブの花植え活動。老人クラブ清掃活動。ゲートボール大会。
誰が決めたのでしょうか。
お小遣いの年金もらって遊びほうけることを。
私は「体がこんなになってゲートボールの槌は握れないから。
生活してゆくのが精いっぱいで出歩く元気はないから」と丁重にお断りしました

ほうば


家系の事もかえりみず経済はみんな私に丸投げして、
父は60歳から88歳まで老人クラブが生きがいでした。

ちいさいときから父は私を溺愛していましたので何でも助けてくれました。やりたいということに特に父は後ろ盾なって応援してくれました。
だからこそ、遊びほうけている父を横目で眺めていました。
「老いらくの恋。色恋沙汰になるよりかいいかー」
なんて大人の女の目線の気持ちでいました。父という部分を外したら、埋め合わせをしたくなるような人生だったのでしょう。20で兵隊にとられ帰ってきたら地主としての生活は一変して土地は少なくなり、小作から土地を買い取るひなに生活。叔父や叔母は多く大家族の中での長男の地位は高いが責任も強かった。
真面目な彼は重圧に耐えて私や弟を育てたのだろう。
亡くした青春を取り戻すかのように生きていたそんな時。
母が乳癌になりました。
今では早期発見すればほとんど再発しない病気と言われています。。

白黒猫のクロちゃん

母は61歳で、乳癌に侵されてなくなりました。まだ若い死でした。
最後の半年は苦しみぬいて、壮絶な最期を遂げて、この世を去りました。
命を全うしてこの世を去るというものは、たとえ余生が限られている病でも。
言葉には出せないほどの家族の病人を取り巻くドラマがあります。

 屬い兇箸いΔ箸腰を抜かして物事から逃げる」タイプと
◆峅燭あろうと全財産投げ出してでも、寄り添う」タイプの2通りの男の姿があるように思います。

父は逃げたい男の一人でした。弱くて情けない△防づ┐靴泙后

母の入院した後父は、毎日毎日やれ「ゲートボール」だ。
やれ「地質調査の会」だとか「老人クラブの旅行」とか「焼き物教室」だとか
「社交クラブの会」だとか。
母のがんになったという現実から逃げて歩いていました。

母の入退院が最初のうちは点滴入院のようなものでしたので、まだ黙っておられましたが、見て見ぬふりも限度の爆発する時が来ました。
最後のころの3か月は父を母のそばにおらせました。
「病院へ行かないのならもう帰ってこないで」
と叫んでいました。車のカギをを投げつけて、

「私は宿の客で忙しいから、通うことはできても、泊まり込んでそばにいてあげることはできない。看護婦さんだけに押し付けていて、独りぼっちで母を死なせるつもりか」と泣きながら、父を責めていました。


今よりも、昔はがん患者にはつらい時期でした。
その晩から、父は私の用意した後ンとボストンバックに詰めた身の回り品を持って蒲団を持ち、病院に泊まり込んで付き添うことになりました。

子供達である私たちは、私も弟も、せっせとお金を稼がなくてはなりません。
がん治療にはたくさんのお金が要りましたので。
今のようにがん保険も手軽にかけておく時代ではなかったのです。

アプローチを通り玄関へ.jpg

そして医学も今ほど進んでなくて。乳がんは治る病気ではなかったのです。
藁にも。すがる思いで丸山ワクチンも、蓮見ワクチンももらいに東京へ通いました。あれがどうきいたのか。ただの水だったのか。
定かではないままに母はだんだん弱ってきました。

「藁にもすがる思い」とは重い病気になった人の家族の気持ちです。
まだ若いということは死んでゆくのを、みすみす見ているのは惜しいという気持ちなのです。
そのころ、うろたえる父に代わり森の家の全経済私の頑張りの中にあった。
流れの中のツアー仕事の宿屋と地元の宴会客。館内カラオケスナックのママに至るまで体を酷使して寝る間も惜しんで良く働いた。あのころが一番動けたのかなーと思う。板前さんと女中さんとフロントマンも置いていた。その上掃除だ雑用だ洗い物のおばちゃんだと地元の主婦にも通ってもらっていた。
あんなに働いたのにお金はどんどん消えていき。給金の支払い仕入れの支払い。必要経費返済とまるで、かごの中で水車をまわすハツカネズミのよう。
しかし一人で女ががんばって生きるという生活を予定道理を着々と進めていた。
だから強くもなっった。たくましくもなった。

乗鞍岳

坂を転がり落ちていくような母の進んでいく病状を。
家族みんなで心配してみていても、どうすることもできない。

母の葬式が住んで一年ほどはあっという間の日々でした。
それから2ねんして3年して父は母のいないわびしさを生めるかのように70歳代のからの20年感は、老人クラブへ捧げる情熱の全盛期でした。
たくさんの彼女たち(おばあちゃん達を連れて)ゲートボールに遠征したり。
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一日は、犬たちの世話から始まります

なんか頂戴レオン

朝おきて、歯を磨いたり髪の毛にブラシあてたり身づくろい後には
「血液サラサラにする血圧のお薬。胃薬。痛み止め。神経痛のお薬アレルギーのお薬」
お菓子のように、手のひらに乗せたお薬を、一飲みする。

それからやっと犬たちの世話をして、猫たちの世話をする。
そんなのんびりした日課が続いています。
そんなことょをやっているとあっという間に一週間土日を過ぎると今年はいろんなセミナーに出ることにしていますので。チャレンジと勉強の日々です。

月曜日は動物物管理セミナーに出かけます。
このセミナーは大事なセミナーで800円の岐阜県証しを張って保健所の事務局に出し、1時から3時のでびっしりスライドに映し出された犬の病気の現状や、犬の法律上の事から始まって犬の病気や感染についてなど幅広い範囲の講義なのです。
この講義を毎年受けないと犬のホテルは営業継続できません。
それほど重要な講習会なのです。

高山の保健所まで。保健所は小高い山の上にあって冬のさなかのこの雪道を歩いて山さかのぼることは杖をついて歩くのもやっとの私にと知って難解なことなのです。弁天荘の玄関からタクシーで直行。
春のほうが車で動けますし何をするにも活動的なのです。

往復で一万円はするのです。もったいないなーとつくつく思う。

しかしまだまだ弁天荘の周りは雪だらけ。
車庫に入ったままの私のマイカーは多分バッテリーが上がってしまって、すぐには乗れないことでしょう。雪国は放置したままだとバッテリー電池は消えてしまうのですよ。みなさんご存知でしたか

雪野原の中に家々が埋まっています

昨日は暖かい兆しで大分屋根の雪が解けていましたけれど今日は気温が上がらず。雨だれのリズムの感じが速いテンポではありません。
すこし山影から太陽の光がさしてきました。

昨日のー今日スーパーで長崎ちゃんぽんの袋で買ってきたので野菜たっぷり入れてラーメン作ります。長崎ちゃんぽんてそういえば、今日先日注文していた着物送ってきました。大昔長崎へ行ったけど卓袱料理は食べたけれど長崎ちゃんぽんの袋はお土産に買ってきたっけ。

植物園みたいな緑が鮮やかな柄の中にに囲まれた中にヒヨドリがいる。
そんな柄のふりそで見つけたので、取り寄せました。
帯はずっしりとした銀と金の花模様の袋帯。素敵にアゲハチョウにするか。
それとも福良スズメにしておくか。

どんな可愛いおじょうさんにきせてあげましょうかねー。
大事にたとう紙にしまいました。
ついでに注文しておいた普段着の小紋も何枚かたとう紙にしまいました。
振袖一枚。すごく気に入ったので買いました。
ふりそでは未婚女性の第一礼装。今更私は着られないのですが。
振袖は見ていると楽しいものです。

着物を広げたお部屋の中の一面に空気が華やかになります。
そんな買い物で私の個人のお財布の中はもう空っぽです。

あまぐりちゃん

いとこの娘に「ひなちゃん」という小学5年生になる少女がいます。
その子が大きくなった時に着せてやりたい。
いつもそんなことを思いながら、私は着物を買っています。
そんなことあたまに掠めてひそかに準備しました。

母型の子供たちの中でも特に注目している少年がいまして。
「牛飼いになりたいから高山高校の畜産課へ入りたい」と言っていたことを風のうわさに聞いて。
その息子の友達の母親は
「牛飼いは当たりはずれがあるからねー」
と話していました。
「牛飼いはどこでしたいの」と尋ねると
「北海道やって。」
「飛騨の牛飼いが北海道行って育てたのでは。ブランド牛飛騨牛とは言えないで  しょう」
「牛飼いなんかよしてせめて「獣医師」かなんかになればいいのに。」
「あの子でしょう作文で文部大臣賞もらった子」
「そうなんですよー」と口を尖らし同級生の仲よし君のお母さんは言った。

q@eby  

何も知らない、子供達。所詮15歳の夢では人生は決められない。
何とかして将来ご縁があればいいのに。
とはいまだにかすかな希望は心に秘めているが。
子供のいない私は20歳過ぎるまで待って、いい子だったら。
両養子にしたいと心で思っていたのだが。

子供のころの夢を抱くことは現実が伴わず。まして収支も伴わない。
牛飼いになりたいなんて。何のための農地を残してきたのだろう。
もっとコメ作りとかトマト作りとかブランド野菜つくりとか、、、。
そういうのではないのかしら。もっとそんな「ばくろう」みたいな仕事ではない大地のこの仕事みつけてくれないかなー。

牛飼いでもいいが。
牛をいつくしんで育て、大きくして、殺して食べるというストーリーを。
命を売る仕事も、その恩恵にあずかって生きている仕事も社会の中には存在することは知っているが。

毎日その牛肉を売り物にして、客に振舞っている立場の宿屋としては、何とかして「獣医」くらいのところでととめておいてほしいものだ。
なんだったら「牛飼い」ならず「犬飼い」でもいいのだ。

その業界へ打って出る基盤と、ニュースの情報源は少なからずも皆無とは言えない。もっと奥の深い喜びに生きてほしいのだが。
所詮単純な子供時代。


将来を牧歌的な社会で生きるのも良い。
大いに活躍の夢を見るべきだ。
しかし、赤の他人よりも少しでも母方。父方の親戚筋の縁組をと、希望するのは子供のいない弁天荘としては当然のことだと思う。
単なる山里の私と父の時代で作った弁天荘なんて、ちっぽけな、取るに足らない宿屋だが。そこには延々と時代の苦悩を乗り越えてつないで来た先祖の生きてきた証だと思う。15代の歴史がある。旧家ほど滅びていくものらしいが何とか私の肩に背負った荷物も次の世代に渡したいものだ。祖父母や母や書人や顔も見たことない大祖父母に相談しよう。何か良い知恵を授けてくださるだろうから。

今年も稲は豊作です。

代々残されてきた先祖からの荷物となってしまった山林も田畑もそして私の人生のすべてを帆をかけて作った「弁天荘」も「ジョンノ家」も「古民家体験館」もみんな全く水の泡だ。

仏間に行ってご先祖様に思いのたけを伝えなくては。

「ざんねんたー。北海道へ行って牛飼いになりたいのだと15歳の高校入試を控えた少年が熱く語るのは。実に残念だー」と心の中でぶつぶつ。

今はやりのホルスタインで熟成肉を作るという市場を狙っているのだろうか。
15歳の少年がそこまで考えるだろうか。もっと現実に目覚めよ。
牛のくそにまみれ借金にまみれ汗にまみれ。
命をものに扱うことで収入にして家族を養い妻を愛し子供を作りそうやって生きて、わずか60年。
年を取ったらどうするの。
牛を押さえつける力がなくなったらどうするの。
命を重く考えたら少なくとも、その道には進まないと思う。

ほうば

そして「ひなちゃん」も今はまだ子供だから何の夢ももっていないだろうかが。
生まれた時から見てきたいとこが生んだ子宝。
主人との間の子宝は私のおなかには育ってくれず。
同じころ、いとこ夫婦のおうちににんしんの知らせ。

かわいいと思う気持ちがあって何が悪いのだろう。
世代の務めとして後継者の若い夫婦に譲るのが務めだと思って頑張ってきた。

だから「この子は私に頂戴ー」といとこには言い続けてきたが。子供には何も言っていない。何も刺激したくないのでずっと黙ってきた。
その日が来るまでは黙っておこう。私の養子に迎える日が来るまでは。

「全財産みんなあんたの物だから」と言って残して手渡してやりたい。
守るためにみんな銀行の担保に預けて、外から見れば真っかっか。
だから誰も心配して立ち入ってくるものがいなかったのだ。

おんぼろの宿屋と厚化粧の古民家。父の時から一坪も減らしていない、農地と何十町部下の山林。父が時折書類をごそごそやっている。

父の考えは父なりの考えで私のそばで生き続けている。
やがて私も年老いて行くだろう。その時まで私だって遊んでいるわけにはいかない。私の目にかなう成人した若者に出会うことができるだろうか。

人世まだ10年は余裕がある。何とかなるんではないの。
頑張って秘密のまま頑張って。
誰もがほしくなるほどの、華やかな人生と基盤を持っていれば。
その台に生きる若者がたった一人でも自分の進むへべき道を走り続けて。
いずれ朽ち果てていく。それが人生だと思う。
大学も月罰社会に生きるパスポートのようなもの。
サラリーマンが性にあっていればいいのだか。
みんなと競争して生きるのは大変だよ。

秋色の世界です。

大将はそんなにいらない。

組織の人間になれるのはほんの一握りでいい。
後はみんな兵隊だ。
働きアリにも夢があり小さなこじんまりとした家があり。
人生文句も言わなければ平穏無事で暮らしてもいける。
大学を出て、仕事はせいぜい限られているし、せっかく学費を出してもらって親の仕送りを受けてまで古里を離れて家族と離れてまで。
一人で頑張ってもなんの役に立つこともないことがある。
大学は花園で卒業してからが騎馬戦なのだから。
大学は何のため。大学行かなくとも学ぶことはいっぱいあって、学ぶことが柔軟な発案の基礎にもなる。
専門的なことを知りたい時に専門の中の一つに大学があるのではないかと思う。


値打ちがあろうとなかろうと、先祖が子孫のために残してくれたものをなるべく量を減らさず質を落とさず。
次の代へ渡すことそれが大きな位牌を持つ家に生まれた子供の定めかもしれない。
一時わが身を恨んだこともあったれけれど。
すべてが身になり。すべてが、昔取った杵づか。
経験はお金では買えない何事にも代えられない学びのもとです。

春までもう余分な買い物投資はできない。
売り上げの割には投資が多いと経理事務所に叱られそうだ。
早々経理事務所ににもそろそろ帳面送っておかなければ。

62歳女将

春は決算期なのでまとめて納めるので預り消費税のまとまった納税におびえる時です。では素敵な午後をお過ごしください。
いつも最後まで読んでくださりありがとうございます。
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嬉しい事  長い年寄りの思い出話です。

嬉しい事。
雪の中にすっぽり入った屋根の雪の先から雨戸夜を乗り越えて張り出していた雪庇が、ぼしょんぼしょんと地面に溶けだした。「春の兆しだー」と思ったら、心の中に一瞬。桃の花が咲いた。「心に何に桃の花が咲く。」なんとロマンチックなことばだろう。中庭の雪山に駆け上って、我慢していた「うんち」を嬉しそうにするわが家の犬たちを眺めても、怒りがこみ上げないのだ。

いつもだとなんで駆け上っててっぺんにする犬たちに向かって。お母さんあんたたちのうんちをはいあがってひろってこなければならないのだからね。勘弁してよー」なんて大騒ぎで犬を叱るるのだが。

ジョンも元気

幸せそうに私を見上げて「うんちしたよ。早く ̄早くご飯頂戴」とレオンはお座りしていい子のふり「頂戴ってばー。ねえねえ」ミニチュワダックスのジョンは私の足にしがみついてオネダリマウント行為。
犬が毎日の生活の中で大半を占めている。
自分でもそりゃそうだと納得。私は犬の宿をやってもう長いのだから。犬のいない生活なんて考えられないというほど。

私は今63歳だから3歳までのことは知らないが、3歳のころにはもうわが家に犬がやってきていたはずだ。買った犬も数知れずつけた名前も数知れず。
クロウ。。太郎。五郎。三郎。ロンにジョンにハッチに現在のレオン二至るまでその中でペットショップから買ってきたのはビーグル犬の八郎とミニダックスの現在のジョンくらいのものだ。
常に私は犬と共にいた。
私は弟に膝を追わ母親の乳をまさぐる甘えが、許されなかったしっかりしなさいおねいちゃんなんだからと言われ続けて育った長女なのだ。

だから父は私に子犬を与えてくれた。
番犬にもらった柴犬だが、半年もしないうちにみるみる間に大きくなって、私はいつもその犬を「ついておいで。太郎はわたちが守ってやるよ」
いつもそんなことを話しかけながら連れて歩いてたそうだ。
犬もそんな幼い私の歩調に合わせてトコトコついて歩いて。
私はそのころから乗れるくらい大きな赤犬系の柴犬を、人生で最初の友達にしたのです。
むかしは犬は外で飼われているものでしたので、暑さ寒さも自然の成り行き次第。
犬の寿命は実に短い物でした。柴犬でも型犬はせいぜい5〜6年くらいの命です

犬小屋に草でつながれて何か物音がすれば犬小屋から「わわーん」とばかり吠えて飛び出すというのが普通でした。
それが番犬の役目。
でも最初のわが家にお隣の集落からコザに背負ってもらってやってきた太郎は私の忠実な友であり召使のようでした。
そしてそれが私の一生を、犬にささげる人生になるとは、誰も予想しなかったことでしょう。

ジョンの家のジョン犬7歳

そもそも太郎という名前はあの頃ラジオで「愛ちゃんはたろうの嫁になりーー」という歌が大流行していて。幼い私の耳にも残っていたのでしょう。
太郎という名前はすんなり口ずさめる名前だったのです。
何年生きていてくれたのでしょうか。小学校の低学年頃までは連れて遊んだことを覚えていますが夏までいたのか冬に死んだのか記憶が定かではなく突然消えてしまいました。

それから私はいろんな動物を飼うことになりました。
高山祭りのヤシのおじちゃんから30円で売ってもらったひよことか。
あっという間に大きくなり雄鶏だったので、毎朝4時ころから、コケコッコウーと誇らしげに雄たけびを上げるので家族から「やかましい」といつも嫌がられていましたが。

私は大きくなってしまって鳥かごには入れないので父に頼んで「コッコウ」の鳥小屋を作ってもらいました。
ある日山から狐が降りてきて、地面をほじくって私の「コッコウ」を食べてしまいました。学校から帰ってきて異変にきずきすぐ小屋に飛んで行ってみた時。
羽だけあたりに散らばっていてそのすざましっさはすごい格闘だったのだろうと思うと助けてあげられなかった自分の無力さが悔しくて、とても悲しくて泣きました。
その翌日からは、あの誇らしげな雄鶏の鳴き声は、二度と聞くことができなくなりました。それからまた迷子の犬とか猫とか。カメとか金魚とかいつも私のそばには動物がいました。
祖父も祖母も父も母も「あの子は何か飼ってっていないと気が済まない仔だから」と諦めるようになり実に様々な動物や鳥や。モルモット。ウサギ。九官鳥。アヒル。犬猫はいつも基本の動物でした。私はそんな動物たちを見ながら高校生活を送りました。年頃の娘時代は父の始めた民宿を手伝って結構楽しい青春時代を送りました。祖父母はもとより、そして年月は瞬く間に流れて、母も病で倒れなくなりまして。民宿からお宿弁天荘と月日を流れて、「ペットの宿」を前面に打ち出してきたころテレビで何回か取り上げられたりもしていました。
看板のそばに鎖につながれている犬がいます。
2日目には雨が降ってきましたので軒下につなぎました。
3日目も誰も迎えに来ません。
4日目には捨てられたということがわかりました。

猫たちも寒い

保健所に知らせてからそのまま内で引き取ることにしました。
大きな赤犬系の柴犬です。日本古来の狩人の連れて歩くような柴犬です。
「ねえ、あなた。アメリカでは太郎のことを何て言うのかしら」と私。
すると主人は「ジョン」っていうのだろうよ。「ジョンFケネディというくらいだから。」顎を肘で支えて背中に子猫を乗せて遊んでいた夫がぼんやりと言いました。

それで初代のジョンは、「ジョンの家」の看板犬になりました。
むかしの太郎のようにとても忠実な犬でした。主人がく真っ赤出血で死んでしまい。
後を追うようにジョンも。あいついでレオンもなくなりました。
レオンは広報で迷い犬として飼い主を捜していた犬ですが、
(シェルティ)シェットランドコリーことですかのような感じのかわいい犬でした。

旅館名裏の散歩道


保健所へ送られていましたので危機一髪私たち夫婦はまるで自分が捨てたかのような「誓約書」をを書いて払下げてもらいました。
でもとても姿のかわいい犬でした。
毛足が長くてとても捨てられていた犬などとは思えません。
鍾乳洞の近所のおうちのへ入って、ご飯かってに食べていて逮捕されたのだとか。
とても痩せていました。

獣医さんに調べてもらいましたら推定5〜6歳とのことでした。
乳腺が貼っていてお父が出る犬です。「子犬を取って親犬は捨てられたのだろう」と獣医さんは言って見えました。
ジョンは推定12歳くらいで虹の橋を渡りました。
10歳ころから投薬は続けていました。
獣医さんの緊急往診も間に合わず、ジョンは心臓マヒ。
レオンは腸の中にガスがたまって腸ねん転のようでした。
苦しい鳴き声をうなるように甲高く泣いて
前足をぴくぴくさせながら虹の橋を渡りました。


1代目柴犬ジョンのお墓.jpg

スタッフ達とみんなで木の下に穴を掘り、シーツにくるんだまま固くなった体を土の中に埋めてやりました。ささやかな弔いをあげてやりました
一年半のうちに主人の後を追うようにそれぞれの犬たちも、虹の橋を渡って行きました。

私はぽロボ泣きながら私が先でなくてよかったのだと自分に言い聞かせました。
それから一年近く喪に付していました。

しかし、私の病はついに発病。高山のホームセンターに買い物に行ったとき何気なくガラスのウインドーの中にうつろ下なミニチュワダックスを見つけました。大きくなってしまって売れ残っているようです。
よく見ればあんまり美犬でもありません。流行りの銀寝ずまだら模様でもなくオーソドックスな茶色の犬でした。目があいました。
それでそのまま連れて帰ることにしました。すぐは渡せないと決まったばかりの法律をかさに着て店員のおねえさんはマニある道理の言葉を口にし始めた。こうなのと絶対ほしくなる。目があったのだ「そこから今すぐ解放してあげるよ」と私はウインドウの中の犬とアイコンタクトしたのだから。
困った襟場の店員が上司に電話していました。

ジョンの家 看板.JPG

ペットショップの責任者が車で駆けつけてきました。
余りくどくどというもので「わかっています。知っています。でももあえてお願いしているのです。私こういうものです」名刺を出した。「ベットと泊まる旅館弁天荘ジョンの家」女将 森和歌子
まるでその店員や責任者の頭上に稲妻が走ったように。
「イヤー失礼しました。弁天荘のお母さんでしたか。弁天荘ジョンノ家は飛騨の元祖みたいなところですよ。この犬を看板犬にしてくださるのでスカ。どうぞどうぞ。お連れください。普通の場合飼い方の説明や訓練やその他いろいろ説明して家族の気持ちが変わらなければという条件でお売りしているものですから。ほらご存知でしょう。生体販売が厳しくなったこと、、。」責任者の人は私の名刺を受取り、自分の名刺を差し出した。店の中の空気は一瞬にして変わった。

愛犬2代目ジョン.jpg

そして穂無センターの真向かいにある信用金庫の自動機から、私はおもむろにお金を引き出してレジに戻り領収書を受け取った。
動物コーナーの店員皆が子見送ってくれた。私はすこしばかり大きめの犬の絵がついている段ボールの箱を助手席に乗せてもらって、みんなの見送りの視線の中をジョンと共に帰った。2代目ジョンになった。
こんな日ほど痛快に思えることはない。私はジョンあんたはわたしのじょんだからね。車の中でくーんくーと小さく泣いている子犬が翌日からジョンの家の2代目ジョンになった。ジョンが2歳を迎える頃だんだん甘えといたずらが激しくなってきたころ、私はfBで痩せた痩せた雑種の雄犬がおなかペタン子の犬としてみんなの「かわいそう誰か里親になってあげてー」とか「これでは餓死寸前だ」とかいろいろの声の出ている中私は中津川の里親さがしょををしている救済センターに電話した。

ジョン2歳

一週間して中津川から連れられてきた。ラブと柴とシェパード交じりとでも言おうか痩せてはいると言っても、ジョンノの3倍の大きさだった。
連れられてきた犬にエサをくれたら見事なまでにカリカリとうまそうな音を立ててコップに2杯ほどの餌はあっという間に間食した。そしてあろうことか。その犬はつないだホールにじぁーじぁーと音を立てておしっこをした。連れてきた救済センターの会長さんが。「今朝食べさせては来たんですけれど。あれーしっこして、、。」と見るも情けなさそうな声を出しておられた。


獣医さんの体調検査や。一年以内にタマ抜きすることなどの書いた説明書と契約書に署名捺印した。

その瞬間から痩せた雑種が2代目レオンということになりました。どちらも出会った順なので仕方がないけれど。
初代ジョンとも初代レオンとも、似ても似つかぬ犬たちがわが家をジョンノ家に大いばりで暮らしています。
ガムに喜ぶレオ
彼らは看板県だという役目はもはやすっかり忘れてまさかのごとく
お客様の犬たちに外を通るのでさえ。
吠え威嚇してドックランに通う犬たちにも、自分の存在を誇示しているのです。
もはや、たんなるぺっトと化しているのですが。
私も癒されているのだし。仕方ないかなーと眺め
「今は幸せかい」と昔流行った流行歌の歌詞をおはようの代わりに投げかけています。
嬉しいガムレオン

とてもうれしそうな顔して喜び尻尾を振るので。
それで私は元気をもらうのだからと独り言つぶやいています。


今夜も長話になりましたね。
最後まで御拝読くださりありがとうごさいます。
明日も素敵ないいことありますように。

ジョンノ家
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体調管理

第二土曜日の疲れが出たのか、昨日は父は風邪気味だと言って診療所へ
叔母は今日は目医者さんに。眼圧が下がらないとか。
私は明日いつもの血圧のお薬をもらいに診療所へ、行く予定。
みんな年寄だから体をいたわりながら時々壊れかけの体の修理に。

ジョンも元気

犬たちはどちらも元気で食欲は恐るべしいきおい。

猫たちもまん丸の顔をして飛んだり跳ねたり。
でも無邪気な犬たちを見ていると心が癒される。

猫たちも寒い

2月はインフルエンザが大流行していて、どこの病院も診療所も風邪ひき子供たちがあふれんばかりだと父が言っていた。
父は「風邪薬よりもまずたまご酒じゃ」と言ってお酒飲んでは、寝ている。
そんなに苦しい風でもなさそうだ。
93歳になるのかな今年は。
身体がぎくしゃくしていても仕方ないことなのだと思う。
自分のことは自分でできるのでありがたい。
父がおむつをするようになっったら、私は宿屋どころではないだろう。

今のところ自分の足で歩き、自分の口で物をかみ時々記憶のねじが、緩んでしまうけれど可愛い老人だと思う。
元気のもとは私らしい。

「婿さんもらってやれやれと思いきや。俺より先にさっさとくも膜下出血で死んでしまった。後家さんになってしまった。」ボソッと口に出していた。

今更この年で二度目の結婚考える気にもならず。
私は仕事一筋に。宿屋稼業。
そんなこんなで父親としては、最後の踏ん張りで頑張っているのだろう。

雪おろしの力仕事してくれる男手もなくただひたすら雪の中にうずくまるように春を待っている。そんな日々。

屋根の雪がこんなに

時折のお客さん仕事もひと段落すると寝て休む日々。
ああー。雪おろしの人の請負費用はいくらくらいかかるのだろう。下しっぱなしでも一日3万円くらいだろうか。×10人で30万円。駐車場の雪は除雪しないといけないだろうからプラスブルトウザーの代金5万円。それが3棟。
そんなこと考えているとなんだかんだと、背負っているものがやりきれなくなる。

早く冬が終わって春が来ないだろうか。待ち遠しい。
宿屋の建物も誰か後継してくれるものがあれば、ゆずるのだが、親戚の子でも赤の他人でも、気持ちが一生懸命に頑張ってくれれば同じこと。
歳はみんな、平等にとって行く。
歳のわりにはげんきだということばもあるが。
それはやはり管理の仕方だと思う。むちとゃをしないこと。
これは年寄には大原則。

中庭がこんなに雪だらけ

「病人の割には元気だ」と私の同級生は言う。高血圧患者に完治はないから。
常に管理して気を付けること。
いつ爆発するかわからないおんぼろ車になってしまった。
嬉しいガムレオン

そういえばもうあの世へ行った同級生が何人かいる。
人の命と体はもろいものだ。
時々修理点検しなくては、、、。

皆さんも体をご自愛くださいね。
今日ははこれで。いつも最後まで付き合ってくれてありがとう。

飛騨の建物は雪でつぶれるような屋根ではないと思うけれど、毎年冬は、こんなように、温暖化は豪雪になるのでしょうかねーー。

春になると雪害保険がだいかつやくしそうですね。
氷が解けて落ちだすと雨トヨなんかはひとたまりもない。
冬から春へと通り抜ける時毎年それなりの被害が発生する。
今年はさんざんの豪雪だ。
そして地震国日本はあちこちで揺れている。
神様仏様。
日本をお守りください。
5円や奮発して500円やそんな程度では、願いはかなえられない。

大雪

ごもっともです。
来年儲かったらもっとお賽銭あげますので、どうか。
そんなこと庭先の弁財天に母屋の広縁からお参りしておいた。
先祖から代々まつって大事にしてきた。
御利益あるんだろうか。跡取りもいないこの弁天荘に。

春になったら水とお米と塩を奉納して真面目に神頼みしよう。
このお庭の草取りせっせとしているのは、わたしですからーー。
皆様のところにも素敵な春が来ますように。

朴にも頂戴ジョン
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2月は雪で当たり前

二月は雪きであたりまえなんですね。
「ああ寒い」とか「まだ雪景色だ」とか「雪は飽きた」とか雪に対して
「ありがとう」とか「感謝の言葉」は口が腐っても言えない
と思っている私がいる。
なぜ感謝しなければいけないか。
行きは解けないでそのままとどまってくれているから。
これが雨のように溶けて流れて地面に吸収されたら、吸収できないほど降っているところは大変なことになる。

そのことを思うと少しは雪だるまのマークにも感謝。
しかし寒い。昔もこんな様だっただっただろうか。
年を取って皮膚に張りがなくなってしまったからだろうか。
部屋が暖かくなると眠くなってくる。

うとうとしている間にいつの間にか私は、
春のたんぼの道脇道を歩いているのです。
なぜか。一代目のジョンノ前のクロウ。
そしてそばを歩いているのは「八郎ではないですか。」大きな耳を垂れてクンクンにおいをかいで歩いています。
八郎はとても気がいいビーグル犬でした。
そして八郎ははくいしんぼうでした。

親戚にくれてやった時。いとこの子供たちは、子犬だと思ったけれど、意外とええ聞かったので「嫌だ」と泣いたそうです。
お舅様はやかましいいふじゃ庭につないで折れと言われたそうです。
親戚で「犬がほしい」と言ったので、ご機嫌取りのつもりで、私は当時6万円もするビーグル犬を犬屋さんから買ってきて「しばらく置いていてこれなら大丈夫」と思ったからまだ幼いいとこたちの情操教育になればと、プレゼントしたのです。

でも八郎は出戻ってきました。返されてきたのです。

どうして戻って来たか知らない八郎は、私に飛びついて嬉しそうにちぎれんばかりのしっぽを振っていました。
「もうどこにもやらない。ごめんごめん。」

赤犬のクロウと一緒に土蔵の屋根下で仲良くまるくなって寝ていました。少しん何゛目の鎖でつないでいました。

赤犬のクロウはマタギの連れて歩くような大きくて賢い鋭い耳の持ち主でした。
私の人生において犬はいつもそばにいる動物でした。
ニワトリを狙ってくる山からのキツネやテンを追うのが仕事でした。

なぜもっと気を付けてあげなかったのでしょう。
八郎のそばには大きな餌箱がありました。
大袋をしまっておくのです。

八郎はそれを嗅ぎ付け、ひっくり返して。袋からあかったドライフードを食べた食べておなかいっぱい食べて。ガスが詰まって死んでしまいました。
親戚から出戻って1週間ほどした日の出来事でした。
  

うとうとっとした瞬間に普段は顔すらも忘れている犬たちが夢に出てきます。
それを食べて食べすぎで死んでしまいました。
忘れていたような私がまだ20か21かそんな頃の話です。

うとうとしながらパソコンの前で飴玉しゃぶっています。

6時に到着するお客様を待ちながら少しひんやりとする調理室から逃げてきています。立って居ると腰が痛くなります。
今夜は
.献礇イモと玉ねぎと人参のクリームシチュウ。
▲譽織垢肇螢鵐瓦肇廛船肇泪箸離汽薀澄
山菜そば。
ぅぅ錺覆留焼き。
ゥ曠Ε譽鵐愁Δ里浸し小鉢。
θ騨牛のしゃぶしゃぶ鍋。
大根と鮭の炊き合わせの大鉢。
味噌汁
お漬物
煮リンゴのデザート。
しろいごはん こんな程度かな。
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ゴールで゛ンウイークの予約

白菜のお漬物

ゴールデンウイークの予約が殺到している。まだ雪だらけだというのに。
それまでの間の予約は入らないのだろうか。
たとえば春休みの期間の予約だとか。
そういった花が咲きだしてからの週末の土曜日とか。
どうしてなんだろう。

人は団子になって先をこぞって予約される。
そして近くになるといけないとか。
子供が風邪ひいたとか犬が入院したとか、まあいろいろな諸事情が発生する。

冬の全景

東海北陸自動車道につながる中部縦貫道。
高山東インターはうちの宿から3分だ。
坂を登ればコンビニすぎるところから山の方向ににできる。
もう5年から8年の間にはできるらしい。
父はオリンピックまでは「生きていられまい」と言った。
今夜の廊下は、お客様のいない宿屋なので、外と変わらないほど寒い。


ご飯を食べに、台所にトコトコ杖を突いてきた父に叔母はヒステリックに言っている。
耳が遠いから余計大きな声でしゃべるからだろうか。

「じいちゃん。そんなパジャマのまま寝床からふわーっと思いつきで来るから寒くて震えるんやよ。私らはどんどんにいっぱい服着てるので、そんなにストーブ抱えて、いなくてもいいの。部屋から出てくるとき、ちゃんと上着を着ておいでよ。」と半ば叫ぶように言っているのが。
このパソコンの部屋まで聞こえてくる。

「お父さん。これとりあえず着ていないよ」
私の綿入れのはんてんを渡した。
ぼけていく老人にありがちな表情で「にやー」と笑い返した。

父が袖を通したのを見て「暖かいでしょう」というと「うんあったかい」と、おうむ返しに行った。
そしてご飯を食べて。ようやく、暖かくなった部屋から自分の部屋に帰る時。

「女物じゃ。そんでも、でかいで俺にも着ることができた。」

ありがとうの代わりに、床にふわっと脱ぎ捨てて行った。

古民家の軒下より


嫁さんには到底。この人の面倒は無理だろうなーとつくづく思う。
きっといちいち腹を立ててどちらかが切れるだけだ。
それでも父は自分の一番下の妹である叔母に、一言も口すぐことなく、じっと我慢してストーブに向かって、うつむきこんでいたのが。哀れにすら見えた。

(心の中で92歳の恍惚の人、捕まえて説教してもしょうがないでしょうに。)
まだ歩いてご飯食べに凝れるだけ大したものよ。
そう思ったのはやはり親子だろうか。(偉いぞお父さん)
薄暗い廊下を帰って行く後ろ姿を見送った。

皆「長生きしたい」と言い。
「長生きして何になるんだ」と自問自答しながら。

「この人の最期だけは看取らない」と。でもながいんだなー。
うっかりすると高血圧患者の私の方が先に行きそうだ。

そう思うと逃げ出すことが、できなかったわが身の運命を、定めと思わず。
せめてすべて自分で選んで進んできた道だと思うことで。
お玉杓子いっぱい分のプライドを。ゆらゆら揺れながら
こぼさないようにしゃくったまま、生き続けてきた自分を、本当にご苦労さん。
とほめてやりたい。

かりんのみがたくさん

逃げ出すことは簡単で。
顔をそむけることは簡単で。耳をふさぐことも簡単だ。
顔をそむけた時から自分を産み育ててくれた。母も父も捨てることになる。
「自分の生活だけで手いっぱい」と理由はいくらでもあろう。
母は病の挙句の果て苦しみながら、息を引き取った。

皆家族は大なり小なりそんな順繰りの悲しみから立ち直って暮らしている。
叔母は母のようなものだ。

母の代わりだと思えば最後まで一緒に暮らせばいいと思っている。
幸せは手のひらの握った中にあり、幾多の嵐が手の甲に打ち付けても。
たった一つの流れてきた血統。親がいる幸せ。
幸せは大事にしようと思う。弱弱しく生きながらえている命だから。

弁天荘ジョンの家から見る前景.jpg

今夜はこれでおしまいの話にします。
いつも最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。
明日はすこしあたたかくなるといいですね。
春が待ち遠しいですね。
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