犬の命も、飼い主様の努力しだい。

犬の生活環境の変化は、飼い主さんの生活環境に比例している。
「ジョンの家」にやってくる犬たちも、やはりそれにもれず「幸せなペット犬」としての最終地点なのだろうか。
いつの間にか「ジョンの家は最後の安住の地」のようになっている現状。
長期下宿のような生活環境。田舎の自然環境の中でゆったりと余生を暮らしている犬たち。
飼い主さんが、何ヶ月かごとに、えさとお金を持って支払いに見えたときでも、犬たちの中には飼い主さんに会えた、感動の喜びすらない。
「おい、元気だったか」などと飼い主さんが自分の預けているペット犬に声をかけられても、犬自体、ただボーとしていることが多い。
一応、「飼い主さんと犬と私たち」の三者会談の末、決まった約束事。
約束道理、定期的な支払いに来られているにもかかわらず。
その手前としても、私なんぞはもう少し(犬たちに愛想よくしてもらってほしい)とさえ望むのだが。肝心の犬たちはまるで(ぼけ老人のそれに似た感じで)「はて、あんた様は、どなたさんでしたっけねえ」という調子で首をかしげている。


後追いするでもなく、久々の出会いの感動という刺激があるわけでもなく。
少し見づらくなってしまった目と、足腰すっかり細くなってしまったよぼよぼした4本足を、やっとの思いで奮い立たせ、のそのそと寝床のモーフの中から這い出てくる。
遠い記憶の中のどこかに、かすかな思い出が残っているようだ。
だからしばらくして、思い出すようだが。
(そんなときに限って、毛飼い主さんが帰ってしまった後だ。)
食ったり寝たり、時々定期的な散歩して、ののんびりとした暮らしぶりの中で、すっかりここの暮らしぶりが定着してしまっているのかもしれない。
私や主人の姿を見ている時のほうが彼らの反応がリアルなことに、飼い主さんにちょっと申し訳なくすら思うことがある。何しろえさやりの順番は、貪欲に反応して大はしゃぎ。
私たちは、それがお仕事だから、犬舎は清潔に保ち、程よい運動もさせ、決められた量の食事を決められた時間にあたえる 。
暑い日にはクーラーもつけ、寒ければ暖房も入れる。
なのに、犬たちの態度といったら
「ああ来てくれたの。」「私は、まだ元気でまだ当分死なないよ。」
こんなつぶやきが聞こえてきそうだ。
そのてん、「一時預けの仔たち」はまったく飼い主さんとの境がはっきりしている。
突然の旅先で知らない施設の中に置いてきぼり。
「捨てられてしまったのではなかった」のだという安心感と喜びの確認。
ほんの数時間なのにまるで、「お母さん、お父さんボクを迎えに来てくれたの。さみしかったよ。ボクおりこうにしているから。ボクを連れて帰って。こんなところに置き去りにされるのはいやだよ。」早口で幼子が早口で訴えるように、ワンワン泣きすがり、ちぎれんばかりに尻尾を振る様。飼い主の手をなめ、足にまとわりつき、大そうどうだ。
まるで私たちがいじめていたわけでもないのに。
世話する係りの人と飼い主さんとの差がひどくはっきりしている。思わず苦笑してしまう。
なかなかお迎えに来てもらえないときなど、遊び相手をしてあげて、今の今まで退屈しないように、遊んであげていたのに。そんなことは知らん振り。
飼い主さん以外には、見向きもしないという感じ。
いそいそと大はしゃぎでかえって行く。
飼い主さんにとってもそこがたまらなくかわいい自分のペットとの「情の絆」だろう。
若い犬と、年取ってからの犬との、かわいさの大差なのかもしれない。
だから年をとってから飼い主さんの生活事情状況で、保健所行きの犬と私たちの「ジョンの家」のような老犬ホーム行きの犬との分かれ道ができてしまうのだろう。 
飼い主の老齢化の事情。急な病の事情。収入の事情。生活住居の変化。
さまざまな事情の中で「ジョンの家」にやってくる犬たちは、一握りの幸せな犬たち。
最後はやっぱりお金かなあ。ペットブームが定着した今、飼い主さんたちもみんな老齢化して行き、地方都市近辺の景気低迷も長引き、年金問題も不安な兆し。
長期預かり割引が大幅にある「ジョンの家」とはいえ、犬の命を、最後のお金を掛けてつないで下さろうとする飼い主さん。
もう少し感謝の気持ちで接して、「犬たちにせめて尻尾くらいは愛想よく振ってもらいたい」と願う私だが。
脳の記憶がいしゅくして飼い主さんとの楽しかった思い出すら、うつろになっていくということは、やりきれない切なさを感じてしまう。
これが人間の自分の親だったら。子供だったら。
そう思いながら、84歳になる私の父を思うのだが。
まだ元気で気の若い父は、ゲートボールの日はいそいそと、ステックかついで出かけているので、ほっと一安心している。