7月15日曇り時々晴れ。少し寒い夜です。

シャブシャブ鍋食事
太陽が少しだけ顔を出してくれました。青い空も少しだけ見えて。
太陽があるということは本当にありがたい事だと思いました。
世の中は、国はブラスだとか、年金の利回りもプラスになっていてとか。
耳触りのいい様に懸命に説明している時の政権と。
今こそ問題点を取り上げて叫びたてている
アメーバのように分裂を繰り返す野党と。
選挙権のはがきが送ってきた。さてさて。どうしたらいいものか。
なくさないように画張りで壁に貼っておいた。
選挙は期日前投票もあるのだが。
何となく義務化されたように選挙に行くことも心が引っかかる。
かといって選挙権を放棄するのも悔しい。今一つ熱が伝わってこない。
政治とか行政とか、の舟のかじ取りの仕方で。未来が変わる。
今景気がいいとは決して思えないような先行きの不安感。
話は変わるが10年ほど前。
弁天荘から、高山川へ行く国道158号線沿いの坊方とうところのタイムリーというコンビニがあったが、10年もしないうちにつぶれた。店ごと売却したようだった。
間もなくデーリーヤマザキというコンビニに看板が変わった。
そこも3~4年程営業していただろうか。
今年の冬にシャッターを下ろしたままになった。
年寄家族オーナーで働いているようだったが、コンビニというシステムを飲み込んで経営を続けていくには。タイ変らしいことすぐ直感した。
レジスターの操作すら大変な様子だった。コンビニのシステムを覚えきるには、その辺の駄菓子屋を経営するようなわけにいかず。飲み物から切ってからたばこまでの商品を管理するにはなかなかタイーンだと思う。まして夜もしめておくわけにもいかず24時間対応するということは並たいていの事ではやりきれないだろうから。
弁天荘から徒歩で15分ほどの所だったから。(車で2分の所)
可愛いわんこ
70歳近い老夫婦と、足にぴっこを引かれて、手が不自由そうな息子さんらしき人と家族構成でたまの時間帯にパートさんらしき中年の女性店員さん。
律儀に24時間対応しておられたのだが、傍から見ては「果たしてかかる経費程売り上げが確保できているのだろうか。首をかしげて見ていた。
「今年の冬はやめる」という宣言をされた。
去年までスズメが店先のの軒下に何か所も巣をかけていたのだが。
シャッターを下ろしたその場所に、今年の春は巣をかけていなかったことを想う。
何時やってきて巣をかけてもいいように、やめたオオナーは軒下の火災警報器の上にツバメの巣を受ける板まで取り外さないようにいたわるように、この店を去ったらしい。優しい気持ちがあったのだろう。
しかし、「人の住んでいない家には。ツバメは巣はかけない」
という、昔の人の教えはその通りだと思った。
昔の人は言う。「ツバメはその家の反映だという。」そこで生まれて育ったツバメは遠い旅をしながらも毎年戻ってきて子育てをするからだ。
2件目のコンビニは、
車で6分ほど走らせた交差点脇にあった。
セブンイレブンもシャッターが下りたまま。
セブ゜ンイレブンは地主の立ち退きを迫られたとのこと。
多分地主はは(もっと大きな組織とタイアップして、来たるこの地の変化に乗り遅れまいと準備に入ったのだろうか)とすら邪推してしまう。
「不便になったね」と会話していたら、3件目のコンビニができた。板倉ラーメンのドライブインの敷地内にローソンができた。全国チェーンの組織だから、今度こそ簡単につぶれてしまうことはない事だろう。
会社名は違っても、3件分の顧客を1本化したのだから。
そのローソンのコンビニはいつ行っても、てんてこ舞いの様子。
65歳の私
事業というものはいつの時代も浮き沈みがあり、栄えて賑わっているように見えても、ツバメの巣などはかけさせないように。するのかもしれない。マニアル通りに。予期せぬことなど起きない。決まりきったリズムに慣れ切ってしまった。
「こんにちわ。いらっしゃいませという」という若い女性の声にに安心感すら覚えてしまっている自分がいる。少しづつ便利さが当たり前に感じてしまうこと事態。
時代の波に流されてしまっているようだ。
高山の街の中はしばらく行かないうちにすっかり様変わりしている。
空き家になった家は古民家として。住居ではなく飲食店になったりしている。
高山市がいったん引き取り売却したり、移住する人たちを募集したり。補助金を出して飲食店のオーナーシェフを募集したりしている。
高山がディスカバージャパンという名のもとに、昔の国鉄が、はなったキャンペーン。私の二十代の頃の事だから。
一昔やふた昔前の話になる。地場産業の木材に関する産業は陰りを見せ。
田中角栄氏の列島改造論が流行りだし、飛騨の地も観光開発の手が入りだした。
その時に取り上げられた高山市のイメージ。
昭和。平成。令和と地代は流れて行き、「過疎化していく町や村」という言葉も、切実にひたひたと、近づいてくる感も無きにしも非ずなのだ。現実。
今の旧高山の一にあたる。古い街並みやら。宮川の朝市やら。
そんな場所が脚光を浴びて。高山も一大観光地としての定着が始まった。
岡山の倉敷の美観どうりや、金沢などの観光地と並んで。
下呂温泉や奥飛騨温らせんとも違う。そんな流れを開拓し始めた。
安くて素朴でひなびた町というイメージの観光客を取り込み。そうゆう若者たちのブームが過ぎ去ったら、今度は、修学旅行客を取り込み。
今では、外国人客の集客に政治がらみで。行政が率先して外国人対応の集客に。
力を入れているようだ。外国人がうじゃうじゃとくる町になった。
私も、時代の流れの変わり目に、弁天荘としての保険をかけるように。
外国人の対応ができる施設を作っておいた。それが母屋の建物を利用した。
「着物体験館」なのだ。少しばかりまとまった資金も投入した。
看板も上げている。古物商の中の衣類商の許可も取った。
そして着替えるための部屋も設備した。
しかし今は父のための家としてすべてを保留している。
着物を着て大はしゃぎの中国娘
アンテークの着物も展示している。それもわたしの目の保養であり。
外国からの着物に興味のある女性観光客に、対応すべきストーリーの流れも作っておいた。
活躍する機会に備えておくことは、時代の波のうねりを考えての保険だと思う。
いつでも羽ばたけるようにしておくことは準備体操のようなものだと思う。
しかし。保険金の支払いは先物投資のようで。しんどいものになる。
そうは言うものの、窓口を閉じていれば何も始まらないのだから。
「宿屋の女将の道楽」と言い放たれても仕方ないような現状なのだが。
着物に関しては、私の中ではかなりの年数が過ぎている。
着物を仕立てることから始まり。
着物を着こなして仕事する、宿屋の主として生きていたのだから。
着物に関しては奥が深いという事だけは実感している。
10年余り前の大きな病気をしてから。
着物も着られないし、片手では着せられなくなってしまった。
そこの施設にもきものに関する知識を持った人を配置していないと。
成り立たなくなってしまった。フリーのふらっと入ってくる人を対応することはできない。何を成し遂げるのも人々の協力があってこそ。
「山の中の田んぼに囲まれた場所で決してみやびでもないところで着物体験館だなんて。何を考えているのかさっぱりわからない」と、そんなことを口にする人すらいたりして。歴史にそう家の成り立ちだからこそそういう形でお披露目したまでの事。「わからない人にはわからなくて結構。」そう思うからこそ。
やるべく土岐にやるべき手入れを下まで、
私の生い立ちとしては、短期大学に行くくらいの気持ちで、高校を出てから、和裁所に3年通った。親が「手に職を付けて、知識も学ぶ機会があったほうがいいだろう」と。学費を私に投資してくれたのだ。
しかしそれを専門職にすることなく。
宿屋での実労が始まった。
看板娘の一枚看板を背負わなくてはならないことから始まり。
病に倒れた母を看取り。いろんなことが通り過ぎていく。
一つ一つ乗り越えていく事から私の仕事は始まった。それが「女将」としての立場になった。
苦労したなどと葉一度も思ったことはない。苦難は何度も乗り越えて来たけれど、それは私の登ってきた坂道だから。今更泣き言など言いたくはない。
父の始めた宿を切り盛りすることで、日々が過ぎて行き。
自分の好きな動物を心置きなく泊まってもらえる施設としての取り組みに。
努力した。しかし、私にとって犬も猫も人もお客様だから。
ペットの宿としての先駆者の道を進んできてよかったと思う。宿を運営するということはいろんなかじ取りがあり。襲ってくる波よりも。
ひたひたと引いていく引き並波の方が痛手をこうむることがある。
着物が反物として存在する所から、種類も学んだ。
着物になるまでの産地から、生地の種類善し悪しまで。
学ぶことが多い。とても奥が深いものなので知ることは楽しい事にもつながる。
今となってはほとんど知識だけの独学に近いものがあるが。
浅間山の大爆発によって噴火の灰をかぶった飛騨は農地はやせ細り、日照不足によって野菜も米も不作つつきで人々は上に苦しみ。
弁財天の庭も緑いっぱい
飛騨という地での、生きるか死ぬかの歴史の中で、飛騨の実験農家として。
江戸時代の後期にこの建物は建てられた。
天領として幕府直轄地であった高山市には、奈良や京都などの神社仏閣を建てるための人材が動員された。その人々が疫を終えて自分の生まれ育った。
その飛騨の匠と言われる、棟梁の元で建てられた、「御蚕様を飼うための大きな家なのだから、子孫は大切に管理して行かなければならない。」と言い伝えられて育った私。
昔の人々は「御蚕様」と言い。日本全国に解雇に関しての歴史はあるが。飛騨の江戸時代末期にも、天災によって食糧難を乗り越えられた繭づくりの蚕を神様のようにありがたがたがって感謝した。
桑の葉が取れる、春子から秋子までの間を、御蚕様と暮らす。
やがて蚕はやや黄色身を帯びて大きく育つと、つぼむといい繭づくりに入る。
繰り返し5月月から11月までの期間を骨身を惜しまず働いた。飛騨の人々は、そんな風に危機を糊小唄らしい。明治時代になり、ますます蚕の養殖は盛んになり。
昭和の第二次世界大戦後はだんだんとすたれて行った。絹に変わり丈夫なナイロンが主流となったから。
それでも高校を卒業してからの着物の仕立ても、少しは実践した。
宿の手伝い片手間に。私のお小遣いになった程度の収入だった。
技術者。職人への教育を受けながらも、私は時代の波に流されてきたことになる。
今の身体となっては、懐かしむだけの思い出の空間の世界。
私の宝物としての自分が生まれ育った生家を私なりに。
着物を展示して古い古い古民家を飾り立てて楽しんでいるということになる。
父が生きている間は此処に住みたいというのだから、商売の在り方を無理をせずに今求められている現状に。
いろりのまわりにすわって
父が介護を終えるまでなかなか道のりは長いが。
私は父の希望通り大きな家を半分仕切って。
父の昔通り暮らしてきた家に時折大工を入れて維持管理している。
天命7年のむ名札を持つ古民家なのだ。この広い屋根の下で生まれ育った私なのだから。子供のいない私は、歴史上私の人生は、最後の「家を支えてきた人」として終わるのかもしれない。そう思うと言えごと廃物にしてしまうには忍び難く。生かす方法をト考えあぐねた末、
50万や100万くらいでは修理修繕することはできないのだから。
まとまった資金を投入して保存管理をした。
ただし。それをやり遂げるかどうかは、自分の体力のあり方次第だと思うから。すこし仕事内容をスリムにしていかなければならない。
父の終の棲家に提供。心配することなく、人生と寿命を全うしてほしいと願い。
そばで見守ることにした。口ではきつい言葉を吐きながらも、肉親の愛情は計り知れないものがある。
無農薬農園や、「外国人専用着物体験館」や。「ジョンの家の犬預かり」。「犬と泊まれる和風旅館。」いくつかの手はひろげているのだが
何を収入の柱にするかは。やはり資本の投入額の違いから。
当然旅館の方にシフトを傾けるべきだと思い。
傍から見ては、気ままに、見えるかもしれないが。
自分の体調を無理しないように。
続けていくように常に気を付けるようにしている。
ジョンノ家から宿を望む
今年は夏のサービスイベントの野菜もぎ取り体験をやめた。
このイベントを続けて。12年目で、天候の変化と、働いてくれる老人たちの労働環境の気候的変化に。「決断の時を下した」たというべきなのかもしれない。
耕作放棄地を維持していくことにしたのだ。
2年ごとにトラクターを入れることにより。「保全管理になる」その信念のもとに。
土地を誰にも貸さないことにしている。
営農管理を委託することにより。わたしの予期していない「除草剤」などをふんだんに使用する営農者が来たら。
たまらないからである。犬にとって除草剤は絶対的な人災だと思うから。
松の木の手入れ
そして着物体験館も、外の道路を通り抜ける人にはわからない。
着物ワールド。私の道楽になっているけれど、それはそれでいいと思っている。
父の安らかな時の送り方が一番だと思うから。なかなかお迎えは着そうもないのでしばらく私が付き合うことのほかないようだ。
売り上げに活用できる日も、時の流れの中には来ることだろう。
その宿の付属としての施設の管理も。大事なことだと今は思う。
梅雨時の今年の夏がもうそろそろ始まりそうなのですかこんなに寒くていいのでしょうか。朝晩はストーブがほしいくらいです。
今日は曇りの中に、晴れ間があるという蒸し暑い日で終わりそう。
これから。夕食の準備に取り掛かります。
では皆様。今日はここまでにします。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。