七つの希望と3つの戒め (希望編 ) その1

お気に入りの袋帯
お正月気分もそろそろあけて。
ことしの抱負を胸に元気に進む64歳の年寄りです。
「年寄だけれど、まだまだ若い者には負けていられないわ」なんて思っています。
昔の人はうまく行ったものですよね。
「歳より笑うな。いずれ歩く道。」そんなひょうごのような言葉が。
お寺の山門の下に。張り出してありました。
本当にそうですね。元気で飛んだり跳ねたりしている時は。
そんなことの意味すらも分からなく。「ふーん」なんて見ただけでした。
気持ちが張り詰めて。
歳を取って行くということはそれだけでも不安なものなのです。
まして傷害の残る脳梗塞は。
まだまだ素敵な服や。
しっとりと年にふさわしい着物も着て。頑張っていた予定なのです。
人世どこに落とし穴があるかしれません。
いろんな行事に出ていられたのかもしれません。
そんなことを思いながら、いつか手を通したいと集めたきもの・
今となっては一枚も着られない。誰かが来てくれればいいなんて思っています。
誰かに着せようなんても思っています。
かわいらしい鮮やかな福良スズメ
私の体験館を訪ねてくれた人に。
美しくて楽しい夢は着せられるとえ思う。
今現代にどれ誰の着物の立ち位置があるかというと。
一部の職業の人が着る程度になってしまった。
お茶のお師匠様。お花のお師匠様。そして踊りやの演劇の人々。
そういう中での私たち旅館の女将の身に着ける。
訪問着や小紋などの立ち位置
高級旅を館か、よほど好きなか。
美容師さん達のの個人のオシャレの着物。
そして貸衣装としての着物。
もう街中をお出かけのときの、きもの姿はとても少なくなった。
御園座も改築中なので観劇すらいけない。
居酒屋のお母さんだって、この頃では着物来ていない。
「これは。いかがー」というように。
貸衣装のオンパレードのような華やかな着物。
本当の着物はどこに今立ちがあるのだろう。
おしゃれをしてちょっといい方の紬着て。出かける紬。
色大島に絞りの名古屋帯閉めて。帯締めも帯揚げも。
大島紬のシュッシュッと絹連れの音がして。
そんな姿で20代旅館の同業者の集まりに出ていた。
きものだから。背筋を伸ばして。
脚も崩せない。チョコト座っている、のは禅の修行よりもつらい。
凛とした気持ちでなければ。着れない着物。
つんとした女でなくて凛とした女が着る着物はかっこいい。
懐かしい母の懐に抱かれている時を思い出させてくれる。
きものの姿に割烹前掛けして。ちょっとたすき掛けのひもを口にくわえて方から背中にひとまわし。
「どこか懐かしい。「3丁目の夕日みたいな」
少しホッとするそれでも何か言いたげな地紬の事。
言い伝える役目がある事気づいたから。
丹生川という地名が消えてしまわないうちに。
誰かが立ち上げないと。誰も手を付けてくれないことだから。
名前を捨てて持参金付でお嫁に行ったのに。
高山という街のはっぴ着せて。
どんなにはちきれんばかりに外国人が来たって、お祭り気分になれない静かな丹生川町。
「ハーイ」と私が手をあげました。馬鹿になって。バカなことをと、笑われて。
「道楽には付き合いきれん」と見放されて。でも私は打掛ひろげちゃいました。
おかしいですか。田んぼのど真ん中で打掛広げておかしいですか。
留袖お袖の長い案テーク
今の時代の流れに逆らって着物とは「険しい。いばらの道だよ」と
言ってくれた人もありました。
何がそんなことしなくても。
犬ぞりだけ引いていればいいのに。
多分心の中では、笑っていることでしょう。
「着物体験館」いつもクローズにしているから。
天邪鬼から始まる、付加価値とプライドではないですか。
玄関先でいらっしゃいませ。
手をたたいて「いらっしゃいませ」と言ったなら。
其れは街並みを、化繊のきもの着せて歩かせるイベントとおんなじではないですか。帯締めもしない帯びさせて歩かせているのとおんなじではないですか。
そんなことつぶやいても。負け惜しみのように聞こえてしまうから。
今は黙っていよう。
沈みそうになる夕日をひつぱりあげるほどの、エネルギーが消耗されることなのかもしれません。でもいいんです。
私はこれが私の人生の集大成と決めたから。「大成しないと、ちょっとまずいんじゃないの?」なんて耳のそばで天の声聞こえてきます。
でも外国の人が本当に「ブラボー」なんて言ってくれたら。
うれしいじゃありませんか。
ことしの秋もいろんな街角で薄い化繊の着物着て、歩いています。「もう秋なんだからあわせのきものでもいいんじゃない」なんておせっかいなこと思っています。
着せる日本人がいるから、「こんなものかなー」と言葉の通じない外国の人が「日本の着物ー」と言って歩いています。どこか変だと思いませんか。
「其れは着物ではないユニフォームだよん。」つて、ボソッとつぶやいています。
「きものという日本の生活着でもないのですから」きものという形なのですから。
なんて思っています。
「でもそれも、ありかも。」つて眺めています。
資本かけないでイメージを追うのもそれもありかも。
でも、景色の中に貧弱な着物を、きものだなんて言って着せて「ごめんなさい。」なんて思っています。
でもコーヒーカップの中身がコーヒーカップの皿に、ケンカ売っても中身がこぼれてしまうだけ。わかっています。
化繊の着物は、ユニフォームとしてのお手軽な。労働着としての変化洗濯機で丸洗いができる。これが売り。作務衣と一緒です。
でも需要と供給は大切なリズムです。
需要がないところに存在し続けるのはやはり道楽なのか。
桜咲きました。
母に連れせれていったじっすのすぐ近くに母の姉が住んでいました。
私はいつもその叔母の家族が好きで、母の実家に行ったその足で。
叔母の家に走って行ったものです。
そこには中学生や高校生のお兄ちゃんたちが
がいっぱいいて私をとてもかわいがってくれました。
小学校に入るかそこらの私です。
おとこ兄弟ばかりの、いとこたちでしたので、
小さい私をとても乱暴に扱ってくれました。お相撲さんごっこもしました。
わざと負けてもらっていたのですねー。懐かしくて楽しい思い出です。
母の姉。
私にとっは叔母にあたるその人はいつも機織りが大好きで。
いつも地紬を自分で織って着ておりました。
昔はそれほど特異なことではありませんでした。
ごく当たり前にちょっと器用な人なら。
あたりまえにやっていた光景です。
叔母はとても器用な人で。努力する人でした。
いまでいうと、濃い深緑に薄い空色の糸や鼠色の糸を配色していたことを思い出します。畑や田んぼの仕事の合間だから、何か月もかかって一反の紬追っていました。母が実家に戻った時は、やさしくていろいろやっているそんな叔母の所に走って行ったものです。
そしてトントンからり。トンからりと。
リズムよくおられていく事が楽しそうでいつもジーと眺めていました。
「私にもやらせてー。」せがんだ私は。
ようやくあの機織りの、板の上に座ることができました。
面白そうで楽しそうで。
やってみたかったのです。ずーと眺めていましたのでやり方はすこしなら、わかります。足がとどかないので、つま先を伸ばして足元の板を踏みました。
なんという名称だか、忘れてしまいましたがいくつかの糸を巻いた、木の船のような糸巻を縦糸の間に通しおおきな櫛のような痛でトントンと横糸を詰めていきます。その時足元の板もきゅっと踏みます。
其れからトントンという音で、布地を詰めていきます。
からりというのは糸巻を左右に通す時のそろばん玉をはじいたような音。
夢中になって3センチくらい織りました。
そうしたらいつも優しかった叔母が「和歌ちゃん。だめや。横糸がちゃんとおさまっていない。耳ができていない。縦糸と横糸の強弱が違うから。」「もう触ってはだめ。」と言いました。
訪問着と振袖加工に出しました。
そして叔母は私のやった分の3センチほどの部分を解いてしまいました。
同じような作業を繰り返して。また叔母の織り方の強弱で織り進めるために。
私は触ってはダメと言われてしまったのです。悔しかったので叔母に向かってい
「いいーもん。」つて白目向いて、悪い子の顔して見せました。
叔母はとても器用な人で自分で旗を織って、自分で着物に仕立ていてきておりました。うちにも機織り機はありましたが。
邪魔になるからと、わが家では機を織るような人はおらず。
風呂のたきつけにしてしまったような気がします。
そんな叔母りの紬の着物をなんと素敵なことだと思った私は。
地元の高校を出てすぐ和裁所に通いました。何年も。
そのころの時代は大学紛争も収まりかけてはいましたが。
トヨタ講堂が燃えたり。
時代のエネルギーが学生たちの反発でうねっていました。
ゲームのように、リズムを付けてメガホンから叫んでいました。
そんな時代背景の中を。どうせちょこっと上の学校へ出したところ。
「目的もない短大へ進学させるなんて。」父の頭の中にはない事でした。
幼稚園の先生になるか。
役場の職員になるか。
栄養士になるか。そういった、ちゃんとした
「目的をもって進むべき道を決めよ」なんて言う。
そんなことを言うので。
遊び遊びお茶のおけいこも。お花の先生にもついて流派を習いました。
結局のところ基本的な時間は。高山の西小学校の前の山之上先生の和裁所に通うことになったのです。
父は私の支配者のようでした。
しかし。私は父に洗脳されて。
父から逃れられない長い長い人生の始まりでもありました。
たくさん花嫁修業で通っていました。仕立て版が15台くらい並ぶ3つの部屋をぶちぬいた広間は、とても明るい声が弾んでいました。
そこでも私はお茶目をやって。「ばか」やって日々を明るく楽しんでいました。
意図すると、仕立て屋の職人気質の、空気をかき混ぜるような。
元気で明るい若さは。先生はいつも笑って。
「森さんががいると空気が明るくなるね。」そんな言葉に、おちょうしに乗ったものです。
学費はすべて父が出してくれました。ついでに料理教室もたまには通いました。
先生の知り合いにに民謡の踊りのお師匠さんがいるということで、好きな者たちが集まり、民謡も習いに行きました。花笠音頭や。飛騨やんさや。郡上踊り。結構楽しかったです。
飛騨高山には「ちょけらまいかいなー。」というカーニバルのようなイベントの日があります。私達は自分で縫った、浴衣着て。皆でぞろぞろ参加しました。手拭いを姉坂ぶりのように頭に巻いて。
街の人がここぞとばかりに。仮装して参加する。
道路を歩行者天国にして、騒ぎ笑。山里の街のエネルギーです。
夏のイベントの本町界隈は、「どこからこんなに湧いて出てきたのだろう」と思うほど。人々が楽しく踊っていました。そろい浴衣の町内会や。参加したものには全員手拭いが配られました。
多分あの雰囲気は今も続いていることでしょう。
それが観光都市飛騨高山の、民衆のはっちゃける日なのです。
人が多く住むということはとても素敵なことです。
ふきのとう
年寄が寄り添って暮らすことは。さみしい事です。
でもこの流れは誰にも止められません。
生まれる数よりも死ぬ数のほうがはるかに多いから。
だから希望の光を見つけて前に進むことです。
どうやって進むことなのかその知恵がありません。
団地を作ればいいというものではないような気がします。
だからいろいろ材料集めしています。春になったら忙しくなるから。
どっちへ向いたら光が多くさすのかすら今は模索ちゅうです。
とりあえず着物体験館作っておきました。
父が。この頃集中豪雨のような雨降りがあるようになって。
土台が腐ると嘆くので。水にも強い栗の木の土台に入れ替えました。そこからごそごそ着物体験館の修繕が始まりました。
対してぴつくーくりするほどの資本はかけていません。
生活してきたことに。少し手を加えて畳や電気の傘を変えた程度です。
まったくの復元はさむくて暮らせません。
ついきのうまで暮らしていた母屋をきれいにしただけです。今も住んでいる父をここから先は私が使う、父のゴミだらけにする生活に仕切りを入れただけです。
父はわたしの描いた図面に乗っかって。いつも眺めています。
「いつから始めるんだ」なんてボソッと言いますので。
ドキッとします。心臓に悪いです。
でもこれは私の希望です。
絹物に触れて。絹物を愛した。人生の次なる集大成の希望です。
今一番。頭を掲げている大きな希望です。
どうせ夢見るなら大きい方がいい。これは昭和人の生きがいです。。
沈む夕日を引っ張り上げるくらいのど根性もつて。
疲れ果ててこっちがお先に逝ってしまうかもしれない。
でも「あっぱれな奴」と言ってくれたら
「いさぎよい生き方だったねー」なんて言ってくれたら。
私は顔をくちゃくちゃにして、喜ぶかもしれない。
どんなありがたい、お坊さんのお経よりうれしいだろう。
可愛い結び帯
大きなことなんて何もできない。一人は一人の力だもの。
皆で株券投資して作った会社ではないのだから。
山間の国道が庭先を通り抜けたから。
石だらけの桑畑整理してそこに旅館造っただけ。
犬たちが集う宿屋造っただけ。
私が男だったら多分周りの人々は教えてくれなかっただろう。
生きていく事に。一生懸命で。生活に一生懸命なのではなく。希望を信じて。
生きることに夢中で走ってきただけ。
長い今日のブログご覧いただきありがとうございました。
ではまた明日。

7つの希望と3つの戒め  その3

りんごのうか買いました
今日から5日間ほどお休みです。
のんびりとしたゆったりとした一日が流れています。
お客様がいらっしゃらないので。
年末年始の売り上げを近くの銀行に預けに行ってきました。
猿の土鈴と小さな猿のねつけもらってきました。
今年は申年ですね。
更新の年はよく荒れるので。
何もないといいのですが。
そして見ざる聞かざる言わざるのサンざるの事は、旅館業では女将に課せられた
個人情報漏えい義務違反という重いものがあります。
お客様のご住所。年齢性別趣向。ご趣味に至るまで。
長年のお付き合いの中では自然と明らかになっていく事なのです。
そしてそれが見てみぬふりをしたり。
聞いても聞かない振りしたり。
決して他の者たちにもしべっては、いけない当然の義務なのです。
それがお金を落としてくださるお客様に対しての。
宿屋というものの本質的な姿勢です。
上二之町の人力車
砕けた言い方をすると浮気で泊まっている「旦那さんを奥様の追求から守ってやらなければならない仕事なんです。機転を聞かしてとっさの電話口ですら。
ストレスのたまりやすい。ハードな労働の気苦労の多い仕事です。
男と女の明暗を含めた隠れ宿にはしたくなかったので。
家族孝行してもらえるペットと泊まるれる旅館弁天荘にしました。
そうしたらテレビニュースが追いかけてきました。
動物の関係では視聴率の高い全国放送の志村けんの「ポチたま」にも出ました。
初代ジョンと私と主人が夕焼け空の中を散歩しているというプロジューサーのカメラワークだったと思います。やらせではありません。田舎を売りたかったのでそうゆう形でなら受けますと言ってうけたテレビカメラでした。
あちらこちらのラジオエフエムにも出ました。ラジオ局は、いくらか協賛してくれるのならというスポンサー形式で。デモテープを作ってくれて。それが時間びったりに流れるというものでした。
電話インタビュう形式で。そんなパターンが。何年間か続きました。
テレビには電話番号は出さないことそれを条件に。
出演するようになりました。
電話番号を出すとちょっと内では受け入れがたい客層から、
卒倒して電話が入ります。
調理室の大掃除
昔3時間電話が鳴りっぱなしになった事。
あっという間の騒がしい電話で。
一か月のめぼしい日の部屋は。満室になった事。
間に満室になってしまったこと。
満室が続くと当然、人出は足りなくなり仕事は粗くなり。
上質なお客様が館内から消えていきます。
そうしましたら。スタッフ達の心も冷えて来て。
本来の掃除や料理が荒くなってしまいます。
そして「まっ。いいかあー」なんて自分に甘くなって。
計算機ぱちぱちはじいて
少しづつ定員ギリギリの部屋割りを作ってしまうのです。
そして。リピーター様のの連れてくる犬たちの性格も忘れて。
すっかり宿に、都合の良いお部屋割りを作成してしまいます。
疲れることに、追われ。
眠さに追われ。
部屋数と名前と人数だけが合えば。
「これでよし」なんて予約帳を閉じてしまいます。
その時は収支はそこそこいくかもしれません。
たくさん取れました。タケノコ
しかし長い目で見たら。
犬に接することが浅い未熟な飼い主さんを、寄せ集めただけの事。
本当にうちの大黒柱を支えてくださるのは、顧客になってくれている上得意様です。一度着て離れていく人もあり舞。
一度来ててそのあと毎年いらっしゃる方もあります。
客離れしないリピーターさんに支えられて。
コツコツと歩いていけばいいのです。
よそからやってくる人たちは挨拶にも来ません。こちらへ引っ越してきました。
〇〇と言います。よろしくお願いしますのタオル一枚くらいは持って。挨拶に来ればいいものを。それがずかずかと田舎にやってくるよそ者なのです。
隣のペンションに、よそから引っ越してきた人がオーナーになって。
「犬の宿」始めました。
そして大手のホテルチェーンもやってきました。
前のオーナーが倒れるとると。次のオーナにはよその人がやってきて。
てっとり早い首のすげ替えになります。
そしてたらいまわしになった社員がやってきます。
意外と飛んでいる時空が違うと競合しないものですが、確かに客の奪い合いとまでは言いませんが。やりにくいということは確かです。
自分の立ち位置がどこにあるのか知りませんが。
とにかく私は「私らしい味のある宿」をなんて常に信念のように、思っています。
さて。3つ目の戒めについては忘れちゃって。
何だったか、定かではありませんので。
日頃心に思っていることを戒めとして書いておきます。
土がつかないもぎ取り野菜農園
私の家は小田信長公に仕えた森蘭丸のお里。
岐阜県兼山の森可成一族の末裔になります。金山には末裔の人がたくさんいますが私はその在所の人たちと会ったこともしゃべったこともありません。
私の代で15代目になります。
森ケ城跡というこの山のてっぺんに小さな石垣で摘まれた堀の跡があります。
森一族の中の一人がここに来ていたという事です。
平たくわかりやすく言うと。
美濃から飛騨の出張城に派遣されていたのです。
そのころのことですから。
街の中にある城下町の城とは違って、
ささやかな山城だったとは思いますが。
この母屋の地は下屋敷として当初よりこの場所にあるようです。
やがて城は山梨の武田信玄公の飛騨攻めにあって、乱世の中に森ケ城と飛騨千光寺と共に、落城になりました。
そしてその時、側室のおなかの中にいたのが。わが家の先祖一代目作蔵の生い立ちデス。城下り観音像の掛け軸。長筒ら。鏡は大谷の日輪人社に寄進いたしました。今でも、土蔵の中に保管しております。父と私以外は立ち入り禁止です。
初代は郷士という形でこの地に育ちましたが。
土地の百姓に育てられた当家の初代は、15歳の元服の時に兼山から送られてきていた侍が。侍になるのなら。「名を名乗って出るように。」と告げたそうです。
私はそのころまだ生まれていませんので。
そのあたりは定かではありませんが。
山の緑
わが家の言い伝えです。
このままこの地に百姓として残るのなら「このままでよい」
ということの選択だったと。代々の言い伝えが残っています。
そして一代目がこの地で暮らし二代目が生まれ育ち。
細々とこの地に暮らして私は15代目に当たります。
父が私の亭主。清さんの亡骸の枕経を読むとき。おてつぎの正宗寺様に過去帳には「白雲院清岳順徳居士」との戒名を、15代目に書いてください。
14代目の父が頼んでいました。14代目に母の戒名がありました。
歴史やプライドでは飯が食っていけないこと。
そのことは、よく身に染みて。知っています。
でもそんな言い伝えや、地元の歴史書に書いてある家継は、
そうそうない、現代の埋没していく家庭す。何を口にしても先ないものを。
そして剛腕な経済力があってこそ。足元をたたえる歴史です。
其れもわかっています。家柄なんてたいそうなことは言いません。
旧家なのです。古民家なのです。
家柄というものは家柄にふさわしい職業についてこその、家柄なのです。
だからと言って、そのことを鼻さきにぶら下げているわけではありません。
太古の昔から男と女がいて、子孫繁栄が続き国は作られてきています。
だから血統なんてみんなおんなじです。たれかがいなければつないで来れない。
私はこの世にいない。
私のように子をなさなかったものは、朽ち果てて死んでいく時を、待つしかないのかもしれません。それが残された者の生き地獄でしょうか。
反保母の種
でも黙って墓まで持っていく事を望みません。
恥ずかしい事は何もしていません。
悔しいから。
のた打ち回って没落していく事を私のブログで日本じゅに発評して。
それでもまだ足らなくて。世界中に発評して。
「だから山は、ただの山ではないんだよー。」
トレッキングコースか何かにして、みんなで歩いてもらいたい。
「山なんだよー。」こだまが「山なんだー。山なんたー。」
と行ったり来たりしています。
「あははーは」私は楽しくなります。何とかなるさ。ケセラセラです。
山が威張っています。去年の雪害でヒノキの木も杉の木ももう何十本。
何百本となく倒れました。
ひとかかげ以上のヒノキや杉や。倒れた山の木を、どうすることもできません。
つらいですねー。自然災害。山の道は5から6年もするとやぶになり。木が生えて。山道は、はなくなるのです。
「ヤッホー」と叫ぶと「あっほー」とこだまが返ってきます。
蝉のように抜けカラだけ残して、10年近く土の中に潜っていたいです。
そうすると骨が土に帰る時を迎えます。
もう森ケ城跡地には杖をついても登れませんが。
ふもとから眺めています。自然の雪風の中で、倒れた大木が。
次の世代の次なる命が芽くために。そんな繰り返しです。
自然林だから山抜けはしないのかもしれません。
栗や栃の木のみを食べて、クマが眠り。カモシカが駆け巡り、ウサギが走り回り。フクロウがなく。リスが木々をわたり。キツネやヤマドリが住む。そんな私の家の山なんです。
山の途中には天神様を祭った広場がありました。
途中の参道にはお稲荷様。最初の庭の坂を上って行くと、上り口には弁天様。
天神さまとお稲荷様は大谷の集落の日輪神社に合社しました。
3つもの神様におすがりしていたなんて。なんて迷いの多いご先祖様。
きっと先祖もたくさんの悩み事を掲げていたのでしょう。
弁天様だけが母屋の前に移しました。
そして私は「弁天荘」という屋号名乗っています。
青空に桜吹雪
すぐそばで宿屋やって暮らしています。
江戸時代。犬公方様の1万頭のお犬様に犬小屋建てて。
お犬様をお守りをして、生きながらえてきた、森氏の歴史の先祖を見習って。
今の時代は商売の企業の乱世と同じ。
外様大名になど到底慣れず。
それでも生き抜いてきたほこりは。私のDNAの中に。もうすぐ閉じるでしょう。
この重いからだが終わる時。届かぬ思いが、終わる時なのです。
どうせ、見るなら大きな夢。背伸びはしません。成り行き任せです。只私はそうたいした金は入りません。身の丈に合った生き方したいので。
私は元気であちらこちらの館の中を歩いています。私の手掛けた3つの棟の中をいつも確認したいから。それまでいつも杖付きながら歩いています。
決して恥ずかしい人生だなんて思っていません。
がむしゃらに働くことは素敵なことです。
身体をかばってこの世に温存する人ばかりです。
居サギのいい生き方してくたばっていきたい。
「馬鹿なやつよ」とつぶやいてほしい。
私が一度目に倒れた時。私のベットのそばに、見舞いにこれないほどお客様の予約が殺到して。スタッフはてんてこ舞いだった。
「女将さん。大丈夫ですか。」ってお見舞い代わりにとりあえず着ました。
沢山の人たちが泊まりに来てくださった。
「大変でしょうけれど。乗り越えてくださいね。」なんて従業員が
「励まされて。頑張ったんです。」なんて言っていた。
きものお手入れ中虫干ししています。
「どう生きて、どう死んでいくか」というだけです。
父の体は元気です。
私の働き疲れた体よりも。ずっとずっと元気なのです。
「共倒れになるからー」と友達は言うのですが。
でもそんな時が来たら。また考えます。
今は自分の置かれている立場を捨て身の覚悟で継続していくだけです。
ぽろっと愚痴いったら。少し楽になりました。
このブログはやり取りのできないブログにしています。
血のしたたる傷口に触らないでほしいから。
「黙って。また来たよ」ってにっこりされれば私はとても喜びます。
それが私のやっている「ペットと泊まれる 旅館 弁天荘なのです。」
年が明けたので。64歳になりました。
だいぶボロボロになった体ですが。70歳まで働けるでしょうか。
がんばります。楽しいこと思っていたいから。
お客様がおっしゃいます。
「父が最後まで行きたがっていた弁天荘です。」
「父の供養のために。父のかわいがってた犬連れて。
みんなで行きます。父の分の陰膳。作ってください。」
そんな 旅館弁天荘なのです。
家族の細分化が進んでいます。
今年もお正月に来れ無くなった方があります。
何十年越しで奥様とご一緒でおいでいただきました。秋にがんでお亡くなりになったそうです。本当に心からご冥福をお祈りいたします。
「子供たちも知人も一緒に行ってくれないので。年末年始の多忙じきに一人で行っては迷惑だから。」そんなお言葉貰いました。
だから本当のてんてこ舞いの日を外したら、一人客も受けられるようにしました。
みんな思い出探しの弁天荘です。
お客さまから。育てていらっしゃるわんこにゃんこから。幸せをたくさんいただきました。
今年の秋から消費税を足せるととてつもなく高くなります。
でもできる限り対価に合うよう。
満足していただけるよう努力していきますので。よろしくお願いいたします。
最後まで寄り添って。優しい目で御拝読くださり、ありがとうございました。

7つの希望と3つの戒め。  その2

弁天荘の玄関前
今日でひと段落です。
最後の正月組も。帰って行かれました。
まん丸の秋田犬連れて。映画になったわさおよりも、はるかにかわいい立派な秋田犬でした。どっしりと踏ん張って、ゆったりとした目で桃太郎君という名前がついていました。 まあるい顔の 穏やかな顔には愛されて育ったことがあらわされていて。あたまをゆったりと触らせてくれました。日本で誇る唯一の大型犬です。
6歳だとか。秋田犬の6歳はさしあたり中年の魅力というところかな。
若武者のりりしさというところでしょうか。
クリーム色の綿毛がしっかり詰まった筋肉の着いた体は、日本犬らしくて。
かっこいい。
「太マッチョ」というところです。
一緒について来たびびりの茶色い女の仔は。スズランちゃん。
玄関で「わ。わ。わーん」なんて吠えちぎっていました。
1歳と、まだ若いから社会化の練習。
そうやっていろんなところに連れて行ってもらうから、やさしい人間もいるということを学ぶんだよ。怖くないから上がっておいで。
すすらんちゃんの。お父さんもお母さんもとっても優しそうな人だからね。
だ丈夫だよ。安心しておあがりなさい。
ヨモギが出ています。
うふふー。お父さんに、げんこつのまねされて、「静かにしなさい」なんて叱られていたね。車で道中長いから、早くお部屋に行ってゆっくり足を述べてくださいね。畳の上にベターと横になっていいんだよ。畳はビニール畳で。アルコールで拭いてあるから。お母さんに寝そべれる敷物引いてもらって。
お家のようにくつろいでいいんだよ。
四本もあいあるけれど肉球捏支えているのだから。
疲れるものね。車に揺られてくるのも疲れるものね。
幸せそうな犬連れ家族が帰って行きました。
ありがとうございました。
また違った季節にもう一度おいでになってください。
今年の初夢。
二つ目の戒めについて書いておきます。
(忘れないようにメモをたどっておきましたので)
太郎が畑でなすびを加えて走り回っていました。
畑にいるのは太郎のお父さんでしょうか。
ぼんやりとした影のような背中が草取りしています。
「清さん。お茶持ってきたよ。クッキーもあるしー。」
太郎だけがなすびを加えて走り回っています。
でも確かに私の旦那さまなのに。返事がありません。
振り返ってくれません。
そこで目が覚めました。
「畑も田んぼも売るな」ということでしょうか。
売るより貸せるほうが大変な時代です。
なんで差し出してしまわなければならないのでしょうか。
不動産の処分と言ってしまえば身もふたもない。
でも私は年取りました。こんな体になってしまって。
気持ちだけでは情熱だけでは、土地を耕すことはできません。
春先に狂ったように父が雨降りにスコップ振り回しています。
ぼたが崩れるーって。93歳です。「お前がお前の使っている男衆に畔切らしたからだ。」もう守る田んぼなんていりません。
農地の税金は私がだしていきますから。私を責めないでください。
もうすぐあの「元気な父」を看取ったら、私もあなたの所へ逝くのですから。
一日の夕暮れ5/27
目が覚めた時涙が枕にこぼれていました。
年老いた老女が、ひとり何ができるのでしょう。
追い詰められて追い詰められて頑張って働いているのです。
草ぼうぼうの田んぼが空しく草だらけの畑のようになっています。
今誰かに貸したら耕作権がなくなって。
貸しくれになる事知っています。
こうやって多くの日本中の旧家が。
没落の苦しみにのた打ち回って、沈む夕日となったのでしょうか。
粉の土への愛着は土いじりをしたものでなくてはわかりません。
大きな大きな時代の流れに巻き込まれようとしています。
貸して、くれてしまうのは。嫌なんです。
権利を離せば。土地を手放す離すことになる。
作らないのなら貸したらどうだ。終戦後の農地解放と一緒です。
亡者のように、田んぼの周りにうごめいています。
それが社会というものです。
以前はひところ農協に貸していました。
その田んぼで高山餅を作っていました。
「ただで作ってあげるのだから」と藁まで売ってしまって。
みるみる間に土地がやせていきました。3年という約束が。
だんまり決め込んで5年も自動更新して。
組織だって危ない者です。疑心暗鬼になってしまいます。
だから契約解除にして返還してもらいました。
だから私は誰にも貸せません。
何も作らなくても、また春にはトラクター入れて手入れしておきます。「馬鹿」だと言われてもいいんです。百姓根性と疎んでくださってもいいのです。
それでも追い付かなければ、冬打ちトラクターも入れます。
弁天荘から見る秋の空
みんなお金をばらまいて維持管理に。
旅館で稼いだお金皆つぎ込んでおきます。
先祖が残してくれた土地だから。
今。世代を背負っているのは私なので。
私はくじけません。
だからとりあえず「今」を維持していくのです。
誇り高く生きることは、つんつんして生きることではありません。
新年を持って志を持って生きることです。仕事のやりと姿を常に選択して。どんなにもう勝ても自分を曲げてはこの土地には生きられないのです。失敗したら跡形もなく消えていく。そんなよそ者商売がどれほど攻めてきたことでしょうか。
近所の人が「お前も裏の田んぼ荒かしているではないか。
専門にやる人に貸したらどうや」って攻めてきます。
嫌です。私が何かを見つけたら。
仕切り直しができるのはこの土地からです。
子供は産んだ子供とは限りません。
30代の夫婦だって私の子供にできるのです。
奇想天外な知恵を絞るのが私です。そうやって一番いい方法選択して。
そうやって周りにみんなケンカ売って。
そして自分の道を狭めていきています。
でも道を狭めないといけない時もあるのです。大手を振って。
大きな道を作ったらその維持管理に難しい選択を迫られるから。
しかし。
弱みを見せるとすぐ周りが、「おいしいにおいがするようだ」と攻めてきます。
たまには泣き言言わせてください。誰も知らない私の宿を選んでくださったお客様がそっと覗きに来てくださるそんなホームページのブログの中くらいは。
おいおいすがって泣く胸もないのですから。
「いいのです。ほっといてください。」というでしょう。
明るさに影は入らないのです。銀議らの太陽の光。真上に背負って笑っていたい。私は変わり者だから。しなだれかかって風に吹かれる柳にはなれない。
私のお寝ている風呂敷の荷物は重いけれど。
まだまた5年や10年生きていられるでしょう。
其れまでにいろいろやることがあります。
町内の納税袋の中の改良組合のアンケートに「貸します」というところ
無印で名前だけ書いて出しました。
「アンケートの紙切れ一枚で決断するには。ちょっと無理があるではありませんか。政府さーん。」
チャレンジすることは若い気持ちになります。歯を食いしばって乗り越えた後は笑いです。みんなそんな様に生きているではありませんか。
まっすぐにおいをかいで走って行きます。道を間違えないように。
危なっかしくても、ちゃんと崖っぷちを渡り切って見せます。
上二之町の風景
私は「自分の思いのままに生きていくからー」なんて。
夕日に向かって叫んでいます。チャンチャラおかしいですよね。
年が明けたので私は64歳になります。
この年になって。
「生きるの死ぬの「」というほどに大げさでない。
静かな夜明けの過ごし方もありましたでしょうに。
時間が静かに過ぎ去って行きます。
心に何か引っかかるものがあるのですね。きっと。
クールに事業と。割り切って進めない私。
「宿も犬に対する情。」「着物体験館も着物がすたれていく情。」「ジョン家もすられている犬に対する情。」
すべての憂いに、遠くの山を見つめながら。
情けから、始まった私の頑張り。皆きっと苦しいのは一緒。
だからくじけてはいけない。自分を信じて頑張ろう。
どこかに本当に解ってもらえる人々がいる。そう信じなければ辛すぎる。
クールでスマートなホテルが攻めてきたつて。
安いだけのペンションが攻めてきたつて。私の長年のお客様は私の宝物。
いつも私をやさしく見つめていてくださる。
新年に、なぜこれほどまでに激しい意固地を、腹に秘めなければ、成らないのでしょう。しかしそれもこれもみんな私の背負った風呂敷。
大風呂敷は広げるのは簡単だが。背負って進むのが難しい。それがこの世のおきて。この年になってそうそう大風呂敷広げることもない。
長い間。ずっと長い間。肝っ玉母さんやって来たではないか。
だから。今日も頑張ります。「あははー」と笑って。
都会の薄っぺらな奴らがどうせ「限界集落」と陰口叩いても。そんな風は
にこっり笑ってバッサリ切ってやります。
私はこの屋の主。15代目の責任は重い。
水仙さきました。
若いスタッフに交じって。助けてもらって。ちょこっと冗談言って。
クスくすっと笑うスタッフに。面白い話。言って聞かせて。
それが私の踏ん張りだから。私頑張る。
そして無理しないでという言葉を尻目に。精いっぱい無理をする。
無理やりでもとおろうとする私の根性。
それほど、閉塞感が広がっている世の中ではないか。
「太郎よ。なんでお前は私の子供に生まれて来てくれなかったの」
同じ捨てられるのなら、人間の赤ちゃんで看板の下に置いてあったのなら。
大喜びで。私は育てていただろうにねえー。
髪の毛にブラシあてながらつぶやいてしまった。
さあ。馬鹿な後戻りできないよ。
今日も忙しい。この年になったので化粧はしない私が。
化粧水だけ顔にぱちぱちなじませて。
秋ナスがたくさん取れます。.jpg
慰霊写真の亭主が申し訳なさそうにうつむいている気がした。
「無農薬農園は、できるる限り続けます。私の思いの丈だから。」
いつも最後まで見届けてくださって。ありがとうございます。
あと一つの戒めは忘れちゃいました。
また思い出して。明日書きます。
明日からゆっくりできますので。
時間はいっぱいあります。ありがとうございました。
お休みなさーい。

7つの希望と3つの戒め  その1

コスモス花盛り
あけましておめでとうございます。
年末年始は「雪がない」という、とても飛騨としては不思議な自然現象の中で2015年は終わり。
それでも私の宿は理想道理、おなじみの顔ぶれが。
まるで故郷へ帰ってきたように。
慣れた手つきで犬たちの足を玄関のおしぼりで拭いていらっしゃいました。
「良いお年をお迎えください」「あけましておめでとうございます。」
が同時のように飛び交い。
30年以上になる「犬の宿としてほぼ成功してきた、自分の歩いてきた道」を
行く年くる年のように振り返る自分がいました。おごりではなく懐かしむように。
これもひとえにお客さまのおかげ様なんだーと思う事ばかりです。
31日は疲れた体を引きづりながら、私の子供たちが待つジョンノ家に戻りました。そして倒れこむようにベットのモーフの中に顔をうずめて。
休息についたのです。
静かに進んでいく時計の針に沈んでいく
ぼんやりとしたお薬を飲んだ記憶。瞬く間に一粒の眠り薬で。
綿のように私はねむのってしまったのでしょうか。
初雪です。
一代目のジョンがにこにこしてそこにいました。
「ジョンお前は、天国に行ったのではないのかい」
そう話しかけても何の返事もありません。
そうたジョンと言う名前は、お父さんと一緒に相談して付けた名前だったね。
お父さんは猫のミーコを、背中に乗せて遊んでいる時。
「日本でいう太郎という名前はアメリカではなんていうの。」と聞いたら。
「ミーコ。イタイイタイ。」なんて悪ふざけしながら。「太郎はジョンだろう。」
そんなことを言っていたよね。
だからうちの「お食事処弁天」のに看板に、つながれて捨てられていたおまえに。
強そうなイメージのジョンの家にしたんだよ。
そしてジョンはずっと、私の太郎だったんだね。
今でも私の腕の中で太郎のぬくもりが、消えていく瞬間が忘れられないよ。
風邪のよく通るクルミの木の下でスタッフ全員で穴を掘ってくれたよね。
あれから毎年「あやめのはなが咲いている」それを見るたびに、
「太郎が私を慰、めてくれる花だ」と思っていつもゴールデンウイークのころは窓辺から太郎の眠る風の通る丘のような土手を眺めているよ。
ドックランもそばに作ったよ。
そばに梅の木のドックランも作っておいたよ。
弁天荘全景夏
大昔のあのころは。
お父さんと一緒に山から切り出した、間伐材のヒノキの木の皮をむいて。
何日も何日もかかって作ったよね。
集落の人が「何してんだー」って、ユンボ持ってきて柱を生める穴掘ってくれたよね。最初のドックランは500坪あったんだよね。
かけっこが大好きな太郎のために。
お父さんと私は太郎のために作ったんだよ。
そして「お友達にも気持ちよく貸してあげるんだよ。」
そうアイコンタクトでお話ししたよね。
私が倒れて久美愛病院に救急車で運ばれた時も。
私が3か月後に退院して今度はお父さんが、救急車に乗って運ばれていったときも。いつもいろんな預かった犬たちに
「騒がないように。ウー。ワン」なんていって。
お母さんの仕事手伝ってくれたよね。
太郎よ。今でも星空の中をかけっこしているかい。
「太郎ちゃん。いつか行くからね。」
でもまだおかあさんは逝けない。
ドックランへのご案内板.jpg
お父さんの供養をしてあげないと。
お父さんが星空で迷っているかもしれないからね。
お母さんが過ごしてきた、お前たちとと「別れてからの日々をちゃんと語ってあげなければいけないから。」
多分この寒空でさえ。天女のお尻追っかけてるだろうね。
まだまだお母さんはやらなければいけないことがあるんだよ。
だからこの夢から覚めたらまたしごとしなくっちゃー。
「太郎お前は悲しそうにクイーンクイーン泣いてくれるのかい。」
確かに鳴き声が聞こえたような気がする。目が覚めた。何時間眠っていたのだろう。もうとっくの昔に、お客様はチェックアウトの時館が過ぎている。
犬の宿は私が死んでもまた「犬たちの方に目を向けてくれる優しい心の人に」譲ることにするよ。只まだすぐではないけれどね。ずっと後かもしれないよ。
だってお母さん元気だもの。お母さんはまだ元気でいられるからね。
お父さんがくれた不思議な寿命があるからね。
1代目柴犬ジョンのお墓.jpg
弁天荘の館内だって。杖を突きながら歩いているんだよ。
スニーカーのような平べったい靴でなければ絨毯の上ですら、歩けないんだよ。
古紙も曲がって、情けない格好だけれども。
お客様がにこにこしてお「体気を付けてくださいね」って。
とても優しい目で声かけて、いたわってくださるから。
だからまだまだ遊んでる、お父さんの足のない着物の裾捕まえて。
「あんた。何やってるのー。また若い子追っかけたりして。」
なんて叱りには行ってられないんだよ。
だから見守っていておくれ。
なんでお前は人間に生まれてくれなかったんだろう。
私の子供に生まれてくればよかったのに。
愛すべき後継者がいない。
私が二度目三度目に倒れる前に。
思い出だらけのこの館を、誰かに手渡さなければいけないんだよ。
その大きな仕事が残っているから。ろくでもない奴には渡せないんだ。
お母さんが、しっかり見定めてからじゃないと。
だからまだまだカンパルから。太郎よ。心に戒めておくよ。
忘れないうちに、一つ目の戒めの覚悟を書き留めておこう。
メモしておいた。このメモを時々引出しからちらって見ながら。しばらく生きていくよ。
「今年もブログを読みに来てくださってありがとうございます。
つかれが取れたらポツリポツリと思い出して書いていきます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。」
私の姿は醜くってかっこ悪いけどまだがんばるよ。
太郎ちゃんのお友達が、いつも泊まりに来て励ましてくれるからね。
今夜も静かに夜が更けていきます。
今日は帰るのをずらしてくださったお客様が何組かあって。ありがたかった。
太郎との約束は破らないように心に誓うよ。
だから優しく見守っていておくれ。
お休み。お父さんと。ミーコと。玉ちゃんと。チビ達にもよろしく。
皆星空にいる仔たちだから。
弁天荘ジョンの家から見る前景.jpg
2016年1月4日  ペットと泊まれる 旅館弁天荘 森和歌子
ありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします。

平成26年。新年あけましておめでとうございます。

弁財天の庭も緑いっぱい
皆様「平成26年あけましておめでとうございます。」
今年も昨年同様変わりませずよろしくお願いいたします。
寒い真夜中に遊ぶように舞い降りてきた、わずかな雪が雪がうっすらと道に積もり。新年あけまして。ガチャーン。こっちでもドカーン。
一月1日の元旦から救急車もてんてこ舞いしているようです。
朝から救急車のサイレンがけたたましく鳴り響いていました。
田舎の沿線上に暮らす者にとっては、「またかと思うような。スピード出して急ハンドルや急ブレーキ掛ければ。舵の取れなくなった難破船と同じです。きっと神様の杖で「こらー」とおしかりになったのだと思います。
「行先は車のエンジンに聞いてくれー」とばかりに、あっという間に進行方向が一回点も二回転もして。運よく追突も免れ、ガードレールにぶつからなかったとしても。無傷で肝をつぶした程度なら。大吉のおみくじの占いのごとく「つつしみて前に進むべし」と心得て今に生きていることを、感謝してください。
ところで2016年の初夢はいかがなものでしょうか。
まだまだ行き詰まるような空気を感じる世俗の状況が広がる。人々は身をこごめてひっそりと夜が明けるのを待ち望んでいるようですね。
重文の証明書
田舎の国道158号線は、黒光りするほどの大変な道路となっております。
ブラックアイスバーンは、思わず玉突き事故や道路から転落などの交通事故を引き起こしますのでくれぐれもお気をつけてください。
幸いうちのお客様はどなたも事故に合わないで来てくださりお帰りになり。
お客さまから無時家路につきましたーとメールが入ってくるので。
気持ちの交流のある宿がやれていて私は幸せだと思います。
初夢のついでに私はこの一週間いそがしくて夢を見る暇もなく、ジョンノ家から旅館まで朝から晩まで館内通勤2分の距離を行ったり来たりしています。
ジョンノ家の初代ジョンが昨夜夢に出て。
とても懐かしく。朝方目が覚めてから「あれが初夢だったんだねー」と思う事の7つの事少し書き残しておこうと思います。
将来の希望と言いますか。後に来る者たちに残してあげたい。
三つの戒めと7つの希望です。
夢って褪めてしまうと忘れてしまうのでテレビの続き物のドラマのようにはうまく思い出せないのですか。
脳裏のどこかでつぶやいたことを目が覚めて、すぐメモしておきましたので。あしたか、あさってにはそのあたりを新年にふさわしい希望として触れてお話視できるのではないかと思います。今日は、さすがにへとへとに疲れましたので予告編のようになってしまいましたが明日行こう改めて書き綴っていきたいと思います。
出は今日は「新年のご挨拶」と、「道路の状況報告」までといたします。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
62歳女将
皆様のご多幸をお祈りいたしまして、今日のブログは閉じることといたします。
ブログに寄り添ってくださり、ありがとうございました。